「マリア・アンヌンツィアータ・フォン・エスターライヒ」の版間の差分

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[[ファイル:Maria Annunciata de Braganza e Austria.jpg|thumb|マリア・アンヌンツィアータ大公女]]
'''マリア・アンヌンツィアータ・フォン・エスターライヒ'''('''{{lang|de|Maria Annunziata von Österreich}}''', [[1876年]][[7月13日]] [[ライヒェナウ・アン・デア・ラックス|ライヒェナウ]] - [[1961年]][[4月8日]] [[ファドゥーツ]])は、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の皇族。皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の姪。全名は'''マリア・アンヌンツィアータ・アーデルハイト・テレジア・ミカエラ・カロリーネ・ルイーゼ・ピア・イグナティア'''(''{{lang|de|Maria Annunziata Adelheid Theresia Michaela Karoline Luise Pia Ignatia von Österreich}}'')。
 
== 生涯 ==
フランツ・ヨーゼフ1世の弟[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ]]大公と、その3番目の妻でポルトガルの廃王[[ミゲル1世 (ポルトガル王)|ミゲル1世]]の娘である[[マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル|マリア・テレザ]]の間の第一子、長女として生まれた。父にとっては2番目の娘である。名前は父の2番目の妻[[マリア・アンヌンツィアータ・フォン・ネアペル=ジツィリエン|マリーア・アンヌンツィアータ]]に因む。家族からは「ミアナ(Miana)({{lang|de|Miana}})」の愛称で呼ばれていた。
 
1894年から1918年まで、[[プラハ]]の貴族の娘たちの入る女子修道院の院長を務めた。1902年、[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]皇后の甥にあたるバイエルン公[[ジークフリート・イン・バイエルン|ジークフリート]]と一時的に婚約した。しかし、婚約後に2人で[[イングランド]]へ旅行した際、ジークフリートに精神錯乱の兆候が現れたため、すぐに婚約を解消している。