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[[明治政府]]は[[欧化政策]]をとり、その一環として[[伊藤博文]]は[[宮中]]での洋服着用を推進した。[[1872年]]の太政官布告339号(大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為ス等ノ件)により、[[男性]]については、ヨーロッパの宮廷服にならった[[大礼服]]などが定められた。またその前年の[[1871年]]の[[散髪脱刀令]](太政官399号)により髪型も従来の髷から散切り頭が一般にも広まった。以後、[[警官]]・[[鉄道員]]・[[郵便夫]]等の制服、また教員の服装などが西洋化した。制服の製造またその払い下げ品を扱うところから、洋服の仕立て屋や貸し出し店が各地にできた。[[大正時代]]に[[サラリーマン]]層が成立すると、公の場では少なくとも[[男性]]は洋装をし[[ネクタイ]]を着用するのが当たり前となった。しかし、自宅に戻ると[[和服]]を着て過ごす人も多く、職業によっては仕事の際にも和服を着用した。
 
一方、[[女性]]の洋装化は遅れ、[[上流階級]]では[[鹿鳴館]]の舞踏会で着用されたほか、[[1886年]]に女性の[[大礼服]]などが定められたが、一般には[[和服]]が着用された。大正時代に入ると、[[大正デモクラシー]]の影響下、[[モボ・モガ|モダン・ガール(モガ)]]や、バスの女車掌などの[[職業婦人]]は洋服を着た。また、[[1923年]]の[[関東大震災]]では、身体の動作を妨げる構造である[[和服]]を着用していた女性の被害が多かったことから、翌[[1924年]]に「[[東京婦人子供服組合]]」が発足し、女性の服装の西洋化を目指す運動が盛んになった。[[大正デモクラシー]]の影響下、[[モボ・モガ|モダン・ガール(モガ)]]や、バスの女車掌などの[[職業婦人]]は洋服を着た。[[1927年]][[9月21日]]には、同組合主催により、当時の銀座[[三越]]において日本国内初の[[ファッションショー]]が開催される。これは一般から[[デザイン]]を募ったファッションショーでもあった。また、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]にあった「[[白木屋 (デパート)|白木屋]]」デパート(旧・[[東急百貨店]]日本橋店の前身)にて発生した大規模火災で、和装の人々に被害が多かったという認識が示されたことも相まって、従業員の服装を西洋式に改める百貨店が増加した。
 
[[1930年代]]後半から[[1940年代]]前半にかけては、[[太平洋戦争]]の戦時体制下の物資欠乏により繊維・衣服の統制が極端に進んだ。[[1940年]]に国民服令によって男性の[[国民服]]が定められた。[[1942年]]からの[[配給#日本|衣料切符制度]]においてスーツの点数が高かったこともあり、流通する衣服の大半が点数の低い国民服となった。女性には和服と洋服を折衷した[[婦人標準服]]が制定されたが普及せず、和服を作り変えた[[もんぺ]]を着用した。戦争による壊滅的な打撃を受けた日本は、敗戦後は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]など[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]からの援助に頼ることになった。食料などと同様、衣料品も不足し、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の放出衣料([[古着]])を通して、洋服が流通し、「占領軍ファッション」として流行した。{{誰範囲|date=2015年3月|[[昭和博物館]]}}は[[昭和]]期の最大の事件は、日本人の洋装化であると述べている。