「ローマ劫掠」の版間の差分

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ローマに集まっていた文化人・芸術家は殺され、あるいは他の都市へ逃れた。文化財は奪われ、教会なども破壊され、ルネサンス文化の中心だったローマは壊滅、停滞の時期を迎えた。これによって[[1450年]]代から続いていた[[盛期ルネサンス]]時代は終わりを告げた。
 
カール5世自身は[[カトリック教会|カトリック教徒]]であり、これほどまでの略奪を意図していたわけではなかったが、事態は皇帝側に有利となった。[[1529年]]、教皇と皇帝は[[バルセロナ条約]]を結んで和解、イタリアはカール5世の支配下に入った。[[1530年]]、[[ボローニャ]]において教皇クレメンス7世の下、カール5世に対して神聖ローマ皇帝の[[戴冠式]]が行われている。アルフォンソ1世も破門を解かれ、[[モデナ]]と[[レッジョ・エミリア|レッジョ]]を与えられた。
 
なお、[[フィレンツェ共和国]]を治めていたクレメンス7世の庶子[[アレッサンドロ・デ・メディチ|アレッサンドロ]]もこの騒ぎに乗じた市民に追放されたが、1530年にカール5世の支援で復帰、[[1532年]]に公爵位を授与され、[[フィレンツェ公国]]を成立させた。