「公傷制度」の版間の差分

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また、当初は2場所連続負け越さないと陥落しない[[大関]]については公傷制度の適用対象外であったが、徐々に適用範囲が広がり、昭和58年からは大関も公傷制度の適用対象となった。なお大関力士の公傷適用第1号は、同年9月場所8日目の[[隆の里俊英|隆の里]]戦で負傷した[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]](現・[[高砂 (相撲)|高砂]])であり、大関力士で最後に公傷適用された力士は、[[2003年|平成15年]]1月場所5日目の[[出島武春|出島]](現・[[大鳴戸]])戦で負傷した[[栃東大裕|栃東]](現・[[玉ノ井]])であった。
 
ところが、[[平成]]時代に入ってからは「全治2ヶ月以上の診断書が提出されたら公傷認定」と言われるまでになり('''「やたらと全治2ヶ月の診断書が出て来る」'''ともいわれた)、場所中の休場力士の増加につながったとされた。このきっかけは、[[1992年|平成4年]]11月場所7日目、東張出大関で当時[[角番]]の[[霧島一博|霧島]](現・[[陸奥 (相撲)|陸奥]])が西張出[[関脇]]・[[水戸泉政人|水戸泉]](現・[[錦戸 (相撲)|錦戸]])戦で、右足首靱帯断裂の大怪我により途中休場(霧島は2場所連続[[負け越し]]により同11月場所限りで大関から関脇[[陥落]]が決定)。その後「全治3か月」の[[診断書]]が出たものの、当時の審判部長を務めた[[佐渡ヶ嶽]]親方(元横綱・[[琴櫻傑將|琴櫻]])が「霧島は右足首負傷後も自力で[[花道]]を歩いて帰った」との理由で、公傷を認定するための「現認証明書」が発行されず、一旦は公傷を認めなかった。ところが数日後の緊急理事会において「ケガの具合を正確に調査するため、診断書の提出を当日限りから3日以内に訂正する」と変更され、霧島は公傷認定により西張出関脇の地位だった[[1993年|平成5年]]1月場所を全休するものの、翌3月場所も同じ西張出関脇の地位に留まった<ref>この場所で霧島は10勝以上すれば大関特例復帰を果たせたが、結局5勝10敗の負け越しに終わった。</ref>。しかしこれが皮肉にも、公傷認定による全休力士が急増する要因にもなった。
 
この理由もあり、当時の[[北の湖敏満|北の湖]]理事長の「鶴の一声」によって、平成15年11月場所を最後に、公傷制度を廃止することが決定した。最後に適用された力士は[[琴ノ若晴將|琴ノ若]](現・佐渡ヶ嶽)。公傷廃止後、制度不適用の第1号となった力士は[[2004年|平成16年]]1月場所で当時十両の[[若天狼啓介|若天狼]]だった。