「バルト帝国」の版間の差分

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== バルト帝国の建国 ==
[[17世紀]]に入り、スウェーデンは[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]](在位:[[1611年]] - [[1632年]])によってヨーロッパ史上に北方の[[大国]]として君臨するのである。彼はまずライヴァルであるデンマークを退け、スウェーデン王位を望むポーランドからは[[リガ]]を奪い、事実上[[リヴォニア]]を[[領有]]した。また、ロシアの[[動乱時代|内戦]]({{仮リンク|イングリア戦争|en|Ingrian War}})に介入し[[西カレリア]]、[[イングリア]]を獲得してロシアとの国境線を更に東方に拡大した<ref>武田,物語 北欧の歴史、P47。百瀬、P147。</ref>。そして[[ドイツ]][[三十年戦争]]に介入し、[[プロテスタント]]([[ルーテル教会|ルター派]])の盟主にもなった。この三十年戦争によりドイツにも領土を得て([[ヴェストファーレン条約]]により確定)、スウェーデンは名実共にバルト帝国を築き上げ、ヨーロッパの[[列強]]にまで上り詰めたのである([[ヴェストファーレン体制]])。
 
[[Image:Scandinavia_1658.gif|left|250px|thumb|デンマークから見たバルト帝国。[[17世紀]]は[[カルマル同盟]]の盟主デンマークにとって「存亡の時代」であった。]]
 
グスタフ2世アドルフは三十年戦争さなかの[[1632年]]に戦死し、後継者の[[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ女王]]は幼かったため、先王の重臣だった[[アクセル・オクセンシェルナ|オクセンシェルナ]]が政治を取り仕切った。オクセンシェルナはスウェーデン史上最大の名[[宰相]]と言われるほどの人物で、バルト帝国の裏の立役者と言える<ref>武田,物語 スウェーデン史、P41。</ref>。この[[女王]]の時代にスウェーデンは、デンマークとの戦い([[トルステンソン戦争]])に勝利し、[[ゴットランド]]を獲得するなど、[[バルト海]]の[[制海権]]を得て北方の[[覇権]]を確実なものとする<ref>武田,物語 北欧の歴史、p49 - p51、武田,物語 スウェーデン史、P45 - p46。百瀬、144 - p145、P148。</ref>
 
そしてグスタフ2世アドルフが作り上げたバルト海国家を、更に拡げたのが[[プファルツ選帝侯|プファルツ]]家出身の[[カール10世 (スウェーデン王)|カール10世]](在位:[[1654年]] - [[1660年]])だった。カール10世は戦い続けた武威の王だった。[[北方戦争]]([[1655年]] - [[1661年]])を開始して[[ポーランド王国|ポーランド]]に攻め込み、スウェーデン王位継承を承認させた。カール10世はポーランドへの野心を抱いた為に反撃され、結果的に撃退されたが、それに付け込んだ[[デンマーク]]を屈服させ([[氷上侵攻]])、スウェーデン南部の[[スコーネ]]、[[ブレーキンゲ県|ブレーキンゲ]]と[[ノルウェー]]の一部も奪った。これによって環[[バルト海]]の3分の2がスウェーデンに属する事となった<ref>武田,物語 北欧の歴史、P58 - p59。</ref>。また[[1660年]]の[[北方戦争における諸条約|オリヴァ条約]]により、ポーランドからの脅威も終りを告げた。バルト海沿岸国([[リヴォニア]]、[[エストニア公国|エストニア]])の支配権を確立し、近隣諸国を圧倒するに至ったのである<ref>百瀬、P150。</ref>。また[[新大陸]]にも僅かだが[[植民地]]([[ニュースウェーデン]]、今日の[[デラウェア州]]。後に[[オランダ]]([[ネーデルラント連邦共和国]])に奪われる)も得た。カール10世は戦争中に病死した為、戦後占領地の一部を返還する事となったが、スウェーデン領に侵攻していたロシアも撤退し、バルト海世界の優位を維持した<ref>武田,スウェーデン史、P68。</ref>。この時代がスウェーデン王国の絶頂期とされる。
 
[[17世紀]]([[1611年]] - [[1718年]])はスウェーデン大国時代であった。グスタフ2世アドルフに始まり、クリスティーナ女王、王家は交代したがカール10世、[[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]、[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]に至る。カール10世の死後、王国は膨張するのを止め、[[平和]]が戻った。[[1679年]]に[[ブランデンブルク=プロイセン]]に[[ポメラニア|ポンメルン]]を一時領有されたが、[[大国]]の座は維持した。デンマークの復讐戦([[スコーネ戦争]]、[[1675年]] - [[1679年]])では引分けに持ち込み、国内的には名実共に[[絶対王政|絶対主義]]を完成した<ref>武田,物語 北欧の歴史、P60 - p61。百瀬、P151。</ref>。ただ[[海軍]]だけは17世紀半ばをピークに衰えを見せ、デンマーク、プロイセンに対し守勢に立っていたため、スウェーデンは典型的な[[大陸国家]]と言えた。
 
== 停滞期と斜陽の時代 ==