「ジョージ・アームストロング・カスター」の版間の差分

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この日、カスター一隊は、現在の[[オクラホマ州]]の西部を流れる雪深いワシタ川べりに[[カイオワ族]]や[[アパッチ族]]とともに避寒のため51の[[ティーピー]]からなる野営を張っていた[[シャイアン族]]和平派の[[ブラック・ケトル]]酋長のバンドを急襲し、女子供の見境なく銃撃を加え、全滅させた。この民族虐殺は「[[ウォシタ川の戦い]]」と白人からは呼ばれているが、実際には戦いというより、一方的な虐殺だった。ブラック・ケトルは白人との和平会談の中心人物として和平を説き続けた人物だったし、彼らの[[ティーピー]]には、和平を表す[[白旗]]が掲げられていた。 ブラック・ケトルはシェリダン将軍が彼らとの和平交渉を経ずに彼らを襲撃するとは信じようとしなかった<ref>Custer, Black Kettle, and The Fight on the Washita:Charles J Brill</ref>。ブラック・ケトルは妻とともに自分のティーピーの傍で死に、カスターの斥候を務めた[[オーセージ族]]によって、その頭の皮が剥がれた。
 
この戦いで、カスターは彼らの土地を補給拠点とする合衆国軍最初の作戦目標を達成した。シャイアン族は「11人の戦士と19人の女子供が殺された」と証言しているが、カスターは「103人殺した」と報告した。カスター側の死者は将が2人と兵卒19人で、これはブラック・ケトルを救出に来た[[アラパホ|アラパホー族]]や[[シャイアン族]]の別バンド、カイオワ族との戦いでによるものである。生き残った50人以上のシャイアン族が[[奴隷]]として連行された。
 
この「勝利」は[[インディアン戦争]]史上初めて米国陸軍が得た勝利とされ、シャイアン族の南部領土は合衆国が占領する事となったが、実情は先述したように非戦闘員の女や子供、乳児も含む無差別虐殺だった。カスターはこの女・子供の死者数をワシントン政府に全く報告しなかった。ワシントン政府もこの虐殺について何らの調査もしなかったのである。そしてカスターはこの虐殺について、上司であるシェリダンと[[ウィリアム・シャーマン]]の両将軍から褒められ、再びカスターの名は「英雄」として輝かしいものとなったのである。