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[[ファイル:NE 565ad.jpg|thumb|300px|left|565年の勢力図]]
 
ムハンマドによるイスラーム共同体が確立される以前、[[アラビア半島]]には半島全域を統治する政治権力は存在していなかった。半島南西部(現[[イエメン]])では{{仮リンク|[[ヒムヤル王国|en|Himyarite Kingdom}}]]が成立し、早くからユダヤ教やキリスト教が浸透し、[[紅海]]対岸に隣接する[[エチオピア]]の[[アクスム王国]]や[[エジプト]]、[[東ローマ帝国]]や[[サーサーン朝]]との国際的な影響を受けた。特に6世紀には、{{仮リンク|ズー=ヌワース|en|Dhu Nuwas}}がヒムヤル王国の(最後の)王となりユダヤ教を国教として政治的に対立していた国内のキリスト教徒の部族勢力を弾圧したことで、エチオピア軍の侵攻と占領を招いた。さらにエチオピア軍による支配に反抗するイエメンの国内勢力がサーサーン朝の軍を招き入れてこれを排除するなど、支配者の交替がめまぐるしく続いた。
 
また、[[ペルシア湾]]岸や[[歴史的シリア|シリア]]、イラク方面ではキリスト教徒のアラブ部族が多かった。4-6世紀当時アラビア半島で代表的な勢力は、イラク南部の{{仮リンク|ヒーラ|en|Al-Hirah}}を拠点とした{{仮リンク|ラフム朝|en|Lakhmids}}、シリア中南部[[ゴラン高原]]の[[ジャービヤ]]({{lang|en|Jabiyah}})を拠点とした{{仮リンク|ガッサーン朝|en|Ghassanids}}、そしてアラビア半島中央部の[[ナジュド]]地方を拠点とした{{仮リンク|キンダ朝|en|Kindah}}などである。