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*1269年(文永6年)[[富士山]]に[[経塚]]を築く<ref>富士山頂上経ヶ岳霊場略縁起([[村山浅間神社]]蔵)</ref>。
* [[1271年]](文永8年) 7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして[[佐渡国|佐渡]]流罪の名目で捕らえられ、[[腰越]]龍ノ口刑場(現在の[[神奈川県]][[藤沢市]][[片瀬]]、[[龍口寺]])にて処刑されかけるが、処刑を免れる<ref group="注釈">刀が段々に折れるという怪異が発生し中止された、という伝説もあるが、日蓮は「種種御振舞御書」に、「江の島のかたより月のごとく光たる物まりのようにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡」り、その結果「太刀取・目くらみたおれ臥し・兵共おぢ怖れる」としている。</ref>。{{main|龍口#歴史|龍口寺#縁起}} 10月 評定の結果[[佐渡国|佐渡]]へ流罪。流罪中の3年間に『[[開目抄]]』、『[[観心本尊抄]]』などを著述。また[[法華曼荼羅]]を完成させた。日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である{{Sfn|綾部恒雄|1991|p=150}}。
* [[1274年]](文永11年)春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に[[法華経]]を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。その後、身延一帯の地頭である[[南部実長|南部(波木井)実長([[清和源氏]]・甲斐源氏武田流)の招きに応じて身延入山。身延山を寄進され身延山[[久遠寺]]を開山。
* [[1274年]](文永11年)、蒙古襲来([[元寇#文永の役|文永の役]])。予言してから5か月後にあたる。
* [[1277年]]([[建治]]3年)9月、[[身延山]]山頂からの下山中、日蓮がお弟子一同に説法をしていた。それを聞いていた[[七面天女]]がその場の皆に自己紹介をし、さらに竜の姿となって隣の[[七面山]]山頂へと飛んで行き一同を驚かし、感激させたという伝承が残される。