「カール6世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
|人名 =カール6世
|各国語表記 ={{lang|de|Karl VI.}}
|君主号 =[[神聖ローマ皇帝]]/[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー王]]/[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]]
|画像 =Johann_Gottfried_Auerbach_002.JPG
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|戴冠日 =[[1711年]][[11月22日]]<br>{{HRR}}、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]](神聖ローマ皇帝)<br>[[1712年]][[3月22日]]<br>[[ハンガリー王国]]、[[ブラチスラヴァ|ポジョニ]](ハンガリー王)<br>[[1723年]][[9月5日]]<br>{{BOH}}、[[プラハ]](ボヘミア王)
|別号 =
|全名 ={{lang|de|Karl Franz Joseph Wenceslau Balthasar Johann Anton Ignatius}}<br>カール・フランツ・ヨーゼフ・ヴェンツェスラウ・バルタザール・ヨーハン・アントン・イグナティウス
|出生日 =[[1685年]][[10月1日]]
|生地 ={{AUT1526}}、[[ウィーン]]、[[ホーフブルク宮殿]]
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|サイン =Signatur Karl VI.jpg
}}
'''カール6世'''(Karl({{lang|de|Karl VI.}}, [[1685年]][[10月1日]] - [[1740年]][[10月20日]])は、[[ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]](在位:[[1711年]] - 1740年)、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王、[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王。[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]と皇后[[エレオノーレ・マグダレーネ・フォン・プファルツ=ノイブルク|エレオノーレ・マグダレーネ]]の次男で[[ヨーゼフ1世]]の弟。[[マリア・テレジア]]の父。ハプスブルク家最後の男系男子である。
 
== 生涯 ==
=== スペイン継承戦争 ===
[[1700年]]、従兄の[[スペイン]]王[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]が病死した。カルロス2世には男児がなかったため、[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・ハプスブルク家]]は断絶した。そのため、カールの父レオポルト1世は、カルロス2世の後継者としてカールを送ろうとした。しかしカルロス2世は生前、後継者として[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の孫アンジュー公フィリップ([[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]として即位)を推薦していたため、ここに[[スペイン継承戦争]]が起こった。これは[[イングランド王国|イングランド]]や[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]などが、フランスがスペインを併合することで欧州の勢力均衡が崩れることを恐れたためである<ref>友清、P12 - P26、マッケイ、P61 - P67。</ref>。
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1740年、狩猟の最中に突如腹痛を訴え、闘病の末56歳で崩御した。死因は[[胃癌]]と推定されている。国事詔書に基づいてマリア・テレジアがハプスブルク家の家督を継いだが、これを巡って[[オーストリア継承戦争]]が勃発することとなる。
 
== 子女 ==
皇后[[エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1691-1750)|エリーザベト・クリスティーネ]](愛称リースル、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公[[ルートヴィヒ・ルドルフ (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|ルートヴィヒ・ルードルフ]]の娘)との間には4子がいるが、成人したのは2人だけである。
*レオポルト・ヨーハン(1716年)
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*マリア・アマーリア(1724年 - 1730年)
 
== 人物 ==
*男児にこそ恵まれなかったが、皇后エリーザベト・クリスティーネを「白き肌のリースル」と呼びこよなく愛した。
*家臣の忠告を無視し、娘に政治家としての教育を施さず、大した軍事力を残さなかったために、各国から侵攻を受けた際、マリア・テレジアは非常に苦労した。
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== 関連項目 ==
{{commons&cat|Carolus VI, Imperator Romanus Sacer|Charles VI, Holy Roman Emperor}}
*[[カールス教会]]