「マイソール王国」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
関連項目。など。
Frozen-mikan (会話 | 投稿記録)
86行目:
[[17世紀]]後半、その息子[[チッカ・デーヴァ・ラージャ]](在位1673 - 1704)の治世に、それまで在地の連合政権の性格を見せていたマイソール王国の中央集権化が進められ、王権の強化が行われた。
 
また、その治世を通して、マイソール王国は[[ナーヤカ朝]]などと争い領土を拡大し、デカンで強盛を誇っていた[[マラーター王国]]の王{{仮リンク|[[サンバージー|en|Sambhaji}}]]が、[[1681年]]国境に攻めてきたが、これを撃退している。だが、[[1689年]]にマラーター王国のサンバージーが死亡し、マラーター勢力が南下すると、マイソール王国の領土はマラーター勢力によって荒らされた。
 
そのため、チッカ・デーヴァ・ラージャはそれを追ってきたムガル帝国の皇帝[[アウラングゼーブ]]に味方し、その代償として領土を得るなどして危機を脱した。
105行目:
 
=== 第1次、第2次マイソール戦争 ===
{{main|{{仮リンク|第1次マイソール戦争|en|First Anglo-Mysore War<!-- [[:ja:第一次マイソール戦争]] とリンク -->|FIXME=1}}|[[第2次マイソール戦争]]}}
[[Image:Anglo-Mysore War 1 and 2.png|thumb|200px|マイソール戦争による領土の変化]]
[[File:HyderAliDominions1780max.jpg|250px|thumb|left|[[1780年]]のマイソール王国の領土。ハイダル・アリーは一代で[[ヴィジャヤナガル王国]]の旧領に相当する地域を王国の版図とした。]]
ハイダル・アリーは以前より、[[カルナータカ太守]]の{{仮リンク|ムハンマド・アリー・ハーン・ウォーラジャー|en|Muhammed Ali Khan Wallajah<!-- リダイレクト先の「[[:en:Muhammad Ali Khan Wallajah]]」は、[[:ja:ムハンマド・アリー・ハーン]] とリンク -->|label=ムハンマド・アリー・ハーン|FIXME=1}}がイギリスと同盟して、マドラスを使用させていることに不満で、そのうえ、デカンのマラーター同盟やニザーム王国などがイギリスと協力関係を結び、マイソール王国の近隣を取り巻いていることも不満だった。
 
そして、[[1767年]][[1月]]、マラーター同盟がマイソール王国の領土に侵入し、マイソール王国も交戦し、第1次[[マイソール戦争]](アングロ・マイソール戦争)が勃発した。イギリスはマラーター同盟やニザーム王国とともに戦ったが、マイソール王国も近代化のために力をつけており、[[1769年]]に逆にマドラスを落とされ、同年[[3月29日]]に{{仮リンク|マドラス条約|en|Treaty of Madras}}を結んで一時停戦した。
129行目:
{{main|[[第3次マイソール戦争]]|[[第4次マイソール戦争]]}}
 
[[1790年]]初頭イギリスは、[[1789年]][[12月]]にティプー・スルタンがケーララ地方を侵略したことを口実に宣戦し、マラーター同盟、ニザーム王国、トラヴァンコール王国はイギリスに加担した。一方、フランスは前年からの[[フランス革命]]により兵を出せず、オスマン帝国は[[ロシア]]との戦争によりイギリスと結んでおり、マイソール王国は不利を強いられた。さらに、[[1792年]][[2月5日]]から[[3月18日]]にかけて、マイソール王国はイギリス、マラーター同盟、ニザーム王国の軍にシュリーランガパッタナを包囲され、マイソール王国軍は一連の戦いで20000人の死者を出した。そして、同月[[3月19日|19日]]ティプー・スルタンは敗北を認め、{{仮リンク|シュリーランガパッタナ条約|en|Treaty of Seringapatam<!-- [[:ja:シュリーランガパトナ条約]] とリンク -->|FIXME=1}}を結び、トラヴァンコール王国、コーチン王国などを除くケーララ地方全域をはじめとするマイール王国の約半分の領土と、多額の賠償金の支払いを約束し、その保証に二人の息子を差し出した。
 
この戦争によりマイソール王国は莫大な損害を被り、18世紀末にティプー・スルタンはフランスの[[ナポレオン1世|ナポレオン]]と結ぼうとしたが、イギリスはこれを条約違反とし、[[1799年]][[3月8日]]に第4次マイソール戦争が勃発した。マイソール王国は交戦したものの、イギリス軍に敗北し続け、同年[[4月5日]]にイギリスとニザーム王国の軍50,000により、首都シュリーランガパッタナを包囲された({{仮リンク|シュリーランガパッタナ攻囲戦 (1799年)|en|Siege of Seringapatam (1799)|label=シュリーランガパッタナ攻囲戦}})。ティプー・スルタン率いるマイソール王国軍30,000は、1ヵ月にわたり交戦したものの、[[5月4日]]の総攻撃でティプー・スルタンは戦死し、シュリーランガパッタナは陥落、占領された。(ティプー・スルタンとシュリーランガパッタナ攻防戦で運命を共にしたものは、軍人だけで6000人に及び、のちにティプー・スルタンとその主な武将の墓が、シュリーランガパッタナの宮殿に作られた)。
 
これにより、30年以上にわたるマイソール戦争は終結し、イギリスの南インドにおける覇権が決まり、インドの植民地化がまた一段と進む結果となった。また、マイソール王国が制圧されたことにより、[[19世紀]]イギリスは内紛の多かったマラーター同盟に介入し、中断していた{{仮リンク|[[アングロ・マラーター戦争|en|Anglo-Maratha Wars|label=マラーター戦争}}]]を再開して{{仮リンク|[[第二次アングロ・マラーター戦争|en|Second Anglo-Maratha War|label=第2次マラーター戦争}}]](1803~1805)と{{仮リンク|[[第三次アングロ・マラーター戦争|en|Third Anglo-Maratha War|label=第3次マラーター戦争}}]](1817~1818)へとつながっていった。
 
=== マイソール王国の藩王国化とインド併合 ===