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* [[難波津]]の土砂の堆積によってここを外港としてきた大和国の東西間交通の接点としての地位を失い(難波津-大和国-[[鈴鹿関]]ルートの衰退)、代わって三国川(現在の[[神崎川]])の工事の結果、[[淀川]]-山背国-[[琵琶湖]]・[[近江国]]のルートが成立したこと(長岡遷都と[[難波宮]]廃止が同時に決められている)<ref group="出典" name="kitamura">北村優季「長岡平城遷都の史的背景」(初出:『国立歴史民俗博物館研究報告』134集(2007年)/所収:北村『平城京成立史論』(吉川弘文館、2013年) ISBN 978-4-642-04610-7</ref>
 
等の説がある。[[784年]](延暦3年)は[[甲子]]革令の年であり、桓武天皇は[[天武天皇|天武]]系とは異なる[[天智天皇|天智]]系の天皇であった。
 
[[785年]](延暦4年)の正月に宮殿で新年の儀式を行ったが、これは都の建築開始からわずか半年で宮殿が完成していたことを意味する。その宮殿建設では、反対勢力や遷都による奈良の人々への影響を意識した段取りをする。当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移築するのではなく、難波宮の宮殿を移築した。また、遷都の際に桓武天皇は[[朝廷]]内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。