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==歴史==
[[文覚上人
康元元年
のち、[[武田信玄]]の帰依により、[[静岡市]]の[[臨済寺]]から東谷宗旱禅師を招いて中興開山とし、妙心寺派となった。
[[貞享]]2年
武田勝頼が藩主の時、武田家菩提所とし、母諏訪御料人を埋葬して乾福院殿という。
さらに次の藩主、保科氏も菩提寺とし、大寶山建福寺と改名。
[[寛永]]13年
==文化財==
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本堂への階段へ上る石段の両側および境内には、[[江戸時代]]の[[高遠石工]]によって作られた45体の石仏がある。
45体の石仏のうち、西国三十三観音が33体、延命地蔵尊1体、願王地蔵尊1体、六地蔵6体、不動尊1体、楊柳観音1体、法陀羅山地蔵1体、仏足一などがある。
===建福寺 紙本墨画中観音左右竜虎図===
江戸初期の画家狩野興以筆の墨絵である。三幅対で構成され、中幅に白衣観音、その左右に虎と龍が配されている。一幅の縦は167.3cm・幅は106.1cmである。昭和25年8月29日に国重要文化財に指定された。
==参考文献==
『上伊那郡史』 昭和48年6月7日 中村安孝<br />
『高遠町史 上 歴史 二』 昭和58年3月30日 高遠町史刊行会<br />
『高遠町誌 下 自然・現代・民俗』 昭和54年7月10日 高遠町誌刊行会<br />
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