削除された内容 追加された内容
11行目:
| 幕府 = [[鎌倉幕府]]
| 主君 = [[藤原頼経]]、[[藤原頼嗣|頼嗣]]
| 氏族 = [[大江氏|大江姓]][[海東氏]]
| 父母 = 父:[[大江広元]]、母:不詳(養父:''[[藤原忠兼]]'')
| 兄弟 = [[大江親広]]、[[長井時広]]、[[那波政広]]、<br>[[毛利季光]]、'''忠成'''、[[尊俊]]、[[水谷重清]]、<br>[[飛鳥井雅経]]室、[[中原師業]]室、[[藤原公国]]室
| 妻 =
| 子 = [[海東忠茂]]、[[海東成茂]]、[[山口忠時]]、<br>[[海東惟忠]]、娘([[藤原親家]]室)
| 特記事項 =海東氏祖
}}
 
22行目:
 
== 生涯 ==
広元から[[三河国]]海東庄を与えられ、定住す海東を名乗る。その後[[尾張国]]の[[熱田神宮]][[大宮司]]の養子に入り、[[承元]]2年([[1208年]])大宮司となった<ref>『中世熱田社の構造と展開』p.146</ref><ref>「張州雑志抄」所収「熱田大宮司系譜」、『[[大日本史料]]』6編15冊682頁</ref>後に[[承久]]2年([[1220年]])熱田神宮の大宮司職辞した<ref>『中世熱田社の構造と展開』p.146</ref>が、後に承久3年([[1221年]])嫡男の忠茂が幕府の影響力を背景に大宮司となった<ref>「熱田大宮司千秋家譜」、『中世熱田社の構造と展開』p.154</ref>
 
[[1245年]]([[寛元]]3年)、鎌倉幕府の[[評定衆]]となり、鎌倉幕府の政務に携わった。しかし、[[1247年]]([[宝治]]元年)の[[宝治合戦]]で、兄の毛利季光が[[三浦氏]]側に味方して敗死したため、それに連座して評定衆を罷免された<ref>「[[吾妻鏡]]」六月十一日条、「関東評定伝」、『大日本史料』5編22冊177頁。</ref>
 
[[1265年]](文永2年)、[[京都]]にて没。
 
忠成の末裔は女系で三河国[[酒井氏]]の祖となり、後に[[松平氏]]に仕えて活躍する[[酒井忠次]]や[[酒井正親]]を輩出した。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* 藤本元啓『中世熱田社の構造と展開』八木書店、2003
* [http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html 東京大学史料編纂所]データベース『大日本史料』
 
== 関連項目 ==