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本項では'''スウェーデンの歴史'''を記す。[[スウェーデン]]は[[スカンディナヴィア半島]]東部に位置する南北に長い[[国土]]を有する国である。同じ[[北ヨーロッパ]]に属する[[デンマーク]]、[[ノルウェー]]、[[フィンランド]]のみならず[[バルト三国]]、[[ロシア]]、[[ポーランド]]にさらに[[ドイツ]]との間でも[[戦争]]や[[外交]]が展開された[[歴史]]を持つ。また[[近代]]においては[[武装中立]]を国是とし、世界有数の[[福祉国家]]を建設したことも注目すべき点であろう。
 
== 概史 ==
=== 先史時代から古代 ===
発掘調査などによれば、今のスウェーデンにおける[[人類]]の痕跡は、[[紀元前]]1万年ころに遡れる。このころには人が定住し、[[紀元前3000年]]ごろには[[農業]]を営み、[[青銅器]]を使用していたとされる。[[青銅器時代]]には西海岸地帯に集中して見られる[[ペトログリフ|岩石線画]]<ref>百瀬、熊野、村井、p18。</ref>が自然の平面岩に刻まれ、また、[[絵画石碑]]もゲルマン[[鉄器時代]]や[[ヴァイキング]]時代の[[スカンディナヴィア]]に建立された。絵画石碑は主に[[ゴットランド島]]で発見されている。これは、死者崇拝や埋葬習慣に起源を持つと考えられている。この時代の[[北欧]]についての最古の記録は、[[古代ローマ]]の歴史家[[タキトゥス]]の「[[ゲルマニア (書物)|ゲルマニア]]」に書かれた、「スイーオネース」の記録であろうと考えられている。タキトゥスによれば彼らスイーオネースは[[バルト海]]に浮かぶ島(当時[[スカンディナヴィア半島]]は島だと考えられていた<ref>百瀬、熊野、村井、p3。</ref>)に住み、陸上戦力のみならず水軍を持ち、勢力を振るったという。
 
タキトゥスの「スイーオネース」によれば、スウェーデン中部の[[スヴェーア人]]が建国した初期の王国の形成は、28の各部族が3つの原生国家へと統合されて行ったと記されている。その原生国家の一つ、メーラル王国は[[メーラレン湖|メーラル湖]]を中心として栄えた王国であり、[[6世紀]]頃に残る2王国を併合し、スヴェーア諸族を統合して誕生したのが[[シルフィング王朝]]であったとされ、それが[[650年]]頃に[[デーン人]]に滅ぼされた後に[[ヴェルムランド地方]]へ逃れて[[インリング王朝]]として再建、南部の[[ゴート王国]]を服属した後、[[860年]]には首都を[[ガムラ・ウプサラ|古ウプサラ]]へ設置し、後のスウェーデン王国の祖形が成立したと言う<ref group="注">別頁、「[[北欧史]]」の-[[北欧史#北欧三国の成り立ち]]-からも参照されたい。</ref>。[[5世紀]]から[[6世紀]]にかけてのスカンディナヴィアでは、民族移動期と呼ばれ(この民族移動期は、[[ゲルマン民族の大移動]]と結びつけられて考えられて来た)、スカンディナヴィア半島南部で砦の建設が急増したが、その要因は、地方的権力の台頭であると考えられている。こうした社会的緊張は、地域的、集団的[[アイデンティティー]]を高めたと言えるが、砦が急増した理由として、後期民族移動期に北欧各地に割拠する権力者と豪族たちによる北欧内部での活動が盛んとなり、それらから防衛する必要性から築造されたと考えられている<ref>百瀬、熊野、村井、p19 - p24、p26。</ref>。また、豪族たちは[[ヨーロッパ大陸]]での[[傭兵]]活動や、北欧内部及び[[バルト海]]沿岸地域での交易、略奪遠征を行って来た。こうしたことは、続くヴァイキング時代の下地となったと言える<ref>百瀬、熊野、村井、p25 - p28。</ref>。
 
=== ヴァイキングの時代 ===
スカンディナヴィアには北ゲルマンの諸部族の小王国が乱立していたが、次第にスウェーデン、デンマーク、ノルウェーの3王国に収斂されて行った。彼らは[[ローマ人]]や[[フランク王国]]から「北の人(「ノルマンニ」あるいは「[[ノルマン人]]」)」と呼ばれ、船団、艦隊を組織し、[[バルト海]]から[[北海]]沿岸での交易、略奪を行った。特に略奪を行うノルマンニは「[[ヴァイキング]]」と呼ばれ、[[9世紀]]にはその剽悍、野蛮を怖れられた([[捕虜]]となった人々を[[奴隷]]としてイスラム世界等に輸出するする等、北欧社会にも[[奴隷貿易]]や[[奴隷制]]は存在した。なお、スウェーデンとその王国領であったフィンランドの奴隷制は、[[1335年]]に「[[キリスト教徒]]の両親によって生まれた奴隷」が事実上、全て本土において廃止された<ref group="注">別頁、「[[奴隷制度廃止運動]]」の-[[奴隷制度廃止運動#各国の奴隷制度が廃止された年代]]-からも参照されたい。なお全ての奴隷制廃止は、[[植民地]]で[[1813年]]、国によって自由を買われた奴隷で[[1847年]]。</ref>)。この時代は、[[西ヨーロッパ]]に比べると、スカンディナヴィアは[[中世前期|中世初期]]の歴史について記述による証拠に乏しく、[[スカルド詩]]による口述の伝統を選んだため、最初の法典や歴史が編集されたのは[[12世紀]]になってからであった。その中でヴァイキング時代の痕跡を残したものとして絵画石碑や[[ルーン石碑]]があった。特にルーン石碑は、[[10世紀]]、[[11世紀]]につくられ、[[ルーン文字]]で刻まれている<ref>ページ、p90。</ref>。ルーン文字を使った[[古ノルド語]]の碑文は北[[ドイツ]]の[[ヘーゼビュー]]、[[ロシア]]・[[ウクライナ]]([[ルーシ]])<ref>ページ、p102 - p106。{{要出典範囲|ルーン銘文は東方での交易だけでなく、東ローマ帝国での近衛兵([[親衛隊]])としての活動も記されている。|date=2015年3月}}</ref>、[[グリーンランド]]、北部[[スコットランド]]、[[マン島]]、[[イングランド]]、[[アイルランド]]の各地で見つかっており、[[イスタンブル]]の[[モスク]]にもルーン文字の[[彫刻]]が見られる。
 
彼らのなかにはデンマーク・ノルウェー・ヴァイキングのように[[アイスランド]]からグリーンランド、さらに[[アメリカ大陸]]に到達、植民したものもいたが、スウェーデン・ヴァイキングは主に東方へと進出し<ref>百瀬、熊野、村井、p34 - p35。</ref>、[[ドニエプル川]]、[[ヴォルガ川]]を遡り、[[東ローマ帝国]]や[[イスラム世界]]と交易などの接触を持った(それ以前に[[バルト海]]を掌握していた可能性もある。特にスウェーデンでは、遠距離交易の要素が強く、現在の[[ラトビア]]における[[リヴォニア]]沿岸に[[7世紀]] - [[8世紀]]のスウェーデン系及び[[ゴットランド島|ゴットランド]]系人の定住地跡が発掘され、交易上・軍事上の拠点としてあったと考えられている)。またロシア平原に定住し、8世紀から11世紀までに[[ノヴゴロド公国]]や[[キエフ大公国]]など[[ルーシ]]諸国の建国者となった。[[東スラヴ人]]側からの伝記では、彼らは「[[ヴァリャーグ]]」と呼称されているが、これがスウェーデン・ヴァイキングであるかは定かでない。少なくとも彼らが[[ゲルマン人]]の一派である事は確認されている。ヴァリャーグにスウェーデン人がいたと確認されるのは、[[977年]]にスカンディナヴィアに逃亡して来た[[ノヴゴロド公]][[ウラジーミル1世]]で、彼は、スウェーデンで兵士を雇って帰還し(この[[傭兵]]たちは、ロシアに来た最期のヴァリャーグ集団となった)、長兄を破って[[キエフ大公]]に就いた時代で、すぐに厄介者となった。そこでウラジーミル1世は、[[東ローマ帝国]]で反乱に悩まされている皇帝[[バシレイオス2世]]に援軍として彼らを送った([[:en:Rus'-Byzantine War (987)]])。以後、ヴァリャーグは東ローマ皇帝の「[[親衛隊]]」となった(ヴァラング隊 (Varangias))<ref>G. ファーバー、p122 - p123。</ref><ref group="注">[[イスラーム]]の歴史家[[イブン・アスィール]]の『[[完史]]』では、ヴァリャーグとしての[[ルーシ族]]の軍事に関する記述がある。</ref>。ヴァリャーグの親衛隊で著名なのは、皇帝のヴァラング隊として仕えていた[[ノルウェー人]]の[[ハーラル3世 (ノルウェー王)|ハーラル3世苛烈王]]で<ref>G. ファーバー、p126 - p130。</ref>、彼らのような小規模な[[常備軍]]を擁していた戦士団は、[[ハスカール]]と呼ばれた。この集団は、[[従士制度]]を持っていたと考えられ、キエフ大公国の[[ドルジーナ]] (Druzhina) とも共通性があり、ヴァイキングの戦士団は、この従士制に基づいていたと考えられている<ref group="注">[[従士制度]]及び[[ハスカール]]を参照。ノルウェーでは、13世紀に従士団法が公布されていることから、北欧では比較的長い間、従士制度が維持されていたと考えられている。</ref>。
 
最古のヴァリャーグの国家は、現在のロシア北部にあったとされる、8世紀後半から9世紀の半ばにかけて成立した[[ルーシ・カガン国]]で国家または[[都市国家]]群であり、[[ノース人]]の他、[[バルト人]]、[[スラヴ人]]、[[フィン人]]、[[テュルク系民族]]などで構成されていた。8世紀半ばに最初のスカンディナヴィア系の人々が[[移住]]を始めた。これらの移住先の街は、[[古ノルド語]]で「{{仮リンク|ガルダリキ|en|Gardarike}}(''Garðaríki''、砦の国)」と呼ばれるようになった。ルーシ・カガン国の存在は幾つかの文献と、[[1820年]]から行われた[[スタラヤ・ラドガ|ラドガ]]と北部ロシアの関連集落の発掘調査から確認されているものの、ルーシ諸国の建国は、このルーシ・カガン国の衰退後であり、その最期は不明である。
 
このようにヴァイキングとして各地に探検、植民をしてきたが、彼らの発祥の地であるスカンディナヴィア半島東では9世紀頃からスヴェア人の王国が建国され、[[自然崇拝]]による祭祀が営まれた。[[10世紀]]には[[キリスト教]]が伝来し、幾分の抵抗をともないながらも受容されて行った。しかしスウェーデンは、北欧では最も遅くまで[[異教]]の影響が残った。異教の王として[[スヴェアランド]]を支配した最古のスウェーデン王は、[[ユングリング家]]の[[エリク6世 (スウェーデン王)|エリク6世]]勝利王であったと言われ(古代の王や、[[北欧神話]]に登場するスウェーデン王がいたとされるが、その多くは各部族の王か、伝承や伝説上のもの)、スウェーデンの政治的統合体は、ヴァイキングの時代によってその原型が形成されたと言える<ref>百瀬、熊野、村井、p41 - p44。</ref>。また、最古のスウェーデン王の[[洗礼]]は、エリク6世の子[[オーロフ (スウェーデン王)|オーロフ・シェートコヌング]]の[[1008年]]頃<ref>百瀬、熊野、村井による『北欧史』年表27頁の年表によれば、[[1000年]]頃。</ref>の[[西方教会]]の洗礼によるものだったが、完全なキリスト教化は12世紀半ばであった。宗教面、経済面、政治面で重要な中心地であるガムラ・ウプサラの大犠牲祭の司祭は王が務めることになっており、[[1164年]]に[[ガムラ・ウプサラ]]に大司教座が置かれるまでこの慣習が続けられた。スウェーデンのキリスト教化は、ガムラ・ウプサラに置かれたこの大司教座を中心として進められることとなる<ref>百瀬、熊野、村井、p52 - p56。</ref>。ヴァイキング時代の[[都市]][[遺跡]]には、[[ビルカ]]や[[ホーヴゴーデン]]などがあるが、ビルカは11世紀以降の産物は発見されず、[[980年]]以前には消滅したものと考えられているが、ホーヴゴーデンは、スウェーデン王国の王領地のネットワークであるUppsala ödに含まれ、[[中世]]には王宮の所在地や行政上の中心地でもあった。城と教会も建造され、[[1279年]]には[[封建制|封建制度]]が確立している。
 
ビルカや[[ゴットランド島]]の[[ヴィスビュー]]は「[[ヴァリャーグからギリシャへの道]]」への起点でもあった。この交易路は、[[黒海]]や[[コンスタンティノープル]]、あるいは[[カスピ海]]へ至っていた水陸交易路であった。ヴァリャーグの伝説の王[[リューリク]]は[[862年]]にラドガを自身の都に定めたと伝えられている。ルーシの諸国はこのリューリクの後継者によって建国されたとスラヴ側の「[[原初年代記]]」は記している。またラドガは、10世紀及び11世紀のヴァイキングやスウェーデン、ノヴゴロド公国の動向が原初年代記や「[[サガ]]」などに文献として残った。ラドガの発掘品からもラドガが次第にヴァリャーグの街となっていったことが確認できている。
 
=== 統一王国の誕生とカルマル同盟 ===
[[12世紀]]になると[[エリク9世 (スウェーデン王)|エーリク9世]]による[[フィンランド]]進出([[北方十字軍]]<ref>百瀬、熊野、村井、p56。{{要出典範囲|これは[[フィン人]]に対するキリスト教化([[カトリック教会|カトリック化]])であると共に、スウェーデン人による[[植民地]]化でもあった。|date=2015年3月}}</ref>)が行われ、[[ヴァルデマール1世 (スウェーデン王)|ヴァルデマール王]]を開祖とする[[フォルクンガ王朝|フォルクンガ朝]]のころにはフィンランド南部を併呑した([[スウェーデン=フィンランド]]の形成。デンマークとスウェーデンのバルト海東岸・南岸への進出は、すでにヴァイキング時代以前から始まっており、[[中世盛期]]以降のバルト海地域は、[[ハンザ同盟]]や[[騎士修道会]]の利害とも絡み、複雑化して行った<ref>百瀬、熊野、村井、p78。</ref>)。この[[十字軍]](<!--十字軍記事ができるまでとりあえず。-->[[スウェーデン・ノヴゴロド戦争]])は、1300年頃まで継続し、[[1323年]]に[[ノヴゴロド公国]]に対してシュルッセルブルグの和議を結ぶことによって終了した<ref>百瀬、熊野、村井、p87 - p90。</ref>(ただし両国の紛争自体は、15世紀半ばまで継続した)。フィンランドがスウェーデン王国に組み込まれる中で([[1284年]]には[[フィンランド公]]を設立)、[[ノルウェー]]とも[[1319年]]から[[1350年代|50年代]]まで[[同君連合|人的同君連合]]を組んだ<ref>百瀬、熊野、村井、p98。</ref>。[[1370年]]には、ハンザ同盟と組み、{{仮リンク|シュトラルズントの和議 (1370年)|en|Treaty of Stralsund (1370)|label=シュトラルズントの和議}}を結んで[[デンマーク]]を牽制した<ref>百瀬、熊野、村井、p101。</ref>。
 
また、現在のスウェーデンの首都となる[[ストックホルム]]は、[[13世紀]]半ばにスウェーデン東部の[[メーラレン湖]]東にある小島スタツホルメン島にフォルクンガ朝の[[ビルイェル (スウェーデン王)|ビルイェル・ヤール王]]による[[要塞|砦]]として築かれたのが最初で、砦としてだけでなく、都市としての機能も形成された(島を囲むように[[木材|丸太]]の柵が巡らされていた為に、「丸太の小島」と呼ばれるようになったが、これは[[スウェーデン語]]で「ストックホルム」と言い、都市名もそれに倣って決定された)。ストックホルムの街は次第に拡大して行き、スウェーデンの有数の都市となり、ハンザ同盟においても重要な都市として発展していった。
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=== 「北方の獅子」と「北方のアレクサンドロス」 ===
[[Image:Sweden 1658.png|thumb|right|140px|バルト帝国の時代のスウェーデン。現在の濃い色に加え薄い色の範囲まで。]]
ヴァーサ朝はバルト海沿岸に領土を拡大させ、[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]のころには[[身分制議会#北欧諸国|身分制議会]]が置かれ、[[1617年]]に最初の議会法が制定された<ref>百瀬、熊野、村井、p146。{{要出典範囲|[[王権]]を支えるものとしての四身分制議会の権威がこの時に確立された。|date=2015年3月}}</ref>。さらに[[重商主義|重商主義政策]]を推進し、[[北アメリカ]]の[[デラウェア州|デラウェア]]に[[植民地]]を建設したほか([[ニュースウェーデン]])、各種産業を保護育成した<ref>武田、p48 - p53。</ref>。グスタフ2世の業績は、[[1612年]]にスウェーデン[[宰相]]となった[[アクセル・オクセンシェルナ]]抜きには達成されなかったと言える。オクセンシェルナは内政面で主君を支え続けた。初期のグスタフ2世のデンマークとの[[カルマル戦争]]は、スウェーデンの敗戦であったが、その講和条約である[[クネレド条約]]で多額の賠償金を支払うことで領土返還に持ち込んでいる。[[1620年代]]のポーランドとの[[スウェーデン・ポーランド戦争]]の苦しい時にも傍らにあり主君を諫めた。その後もオクセンシェルナは、主君と二人三脚でスウェーデンを大国化させようと努力を重ねた。主君の死後は、主君の遺児、幼君[[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ]]を補佐し、スウェーデンを盛り立て、最終的にはスウェーデンを[[列強]]の地位に押し上げた功労者となった<ref>百瀬、熊野、村井、p146 - p147。</ref><ref>武田、p49。</ref>。
 
グスタフ2世アドルフは「北方の獅子」とよばれ、デンマーク、[[ポーランド・リトアニア共和国]]、[[ロシア・ツァーリ国]]と争い、[[イングリア]]、[[リガ]]などバルト海沿岸を征服支配、[[バルト帝国]]を確立した<ref>入江、p17 - p18。</ref>。ポーランド(共和国)とは王位継承問題を抱えており、スウェーデン軍は共和国に侵攻し国内各地を跳梁したが、[[オスマン帝国]]対策を一段落させて南方から戻ってきたポーランドの名将[[スタニスワフ・コニェツポルスキ]]に撃退されポーランド併合は挫折した<ref>ブレジンスキー、p6。</ref>。しかしポーランドも財政問題を抱えており、[[アルトマルク休戦協定|休戦協定]]が締結されることとなり、[[リヴォニア]]の大半を征服することに成功する<ref>ブレジンスキー、p7。</ref><ref>志摩、p68 - p69。{{要出典範囲|征服以後、スウェーデンの影響力は年々増していったが、この地域での実質的な支配者は、[[バルト・ドイツ人]]であった。|date=2015年3月}}</ref>。これによりグスタフ2世は、当時は未だ強国であったポーランドから外交的勝利を得たことでヨーロッパでの名声を高めることとなった。その後、[[1618年]]に始まる[[三十年戦争]]には[[1630年]]に[[プロテスタント]]側に味方し介入。[[ポメラニア|ポンメルン]]から[[バイエルン公国|バイエルン]]まで破竹の進撃をしたが[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]で戦死した<ref>菊池、p105 - p130。</ref>。国王の戦死を受けて宰相オクセンシェルナは[[ハイルブロン同盟]]の結成など画策しつつ戦争を続行し、[[中央ヨーロッパ]]に進出、[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]]ではスウェーデンは戦勝国となった。しかしグスタフ2世アドルフの後継者[[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ]]は、この条約で要求の半分の[[戦争賠償|賠償金]]、西ポンメルンの獲得など大幅な譲歩をした<ref>菊池、p191 - p193。</ref>。三十年戦争後期にはデンマークとも[[トルステンソン戦争|戦端を開き]]、[[1645年]]に[[ゴットランド島]]や[[エーレスンド海峡]]の通行税免除などを勝ち取り、スウェーデンは北欧での[[覇権]]も確立した<ref>百瀬、熊野、村井、p145。</ref>。三十年戦争後のスウェーデンは、ヨーロッパの[[勢力均衡]]体制([[ヴェストファーレン体制]])の一員となった<ref>伊藤、p170 - p172。</ref>。
 
クリスティーナは政治より学問に関心があり、[[ルネ・デカルト|デカルト]]などを宮廷に呼んで哲学的思惟に耽ったりした。そして財政問題などを招いて退位し<ref>武田、p58 - p60。</ref>、[[ローマ]]で「[[サロン]]の女王」として余生を過ごした<ref>百瀬、熊野、村井、p149。</ref><ref>武田、p57。{{要出典範囲|スウェーデンの歴史家によれば「[[バロック]]の女王」。|date=2015年3月}}</ref>。クリスティーナの退位によって、[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]]家の傍系[[プファルツ王朝|プファルツ=クレーブルク家]]が王位に即いた。クリスティーナの女系の従兄である初代国王[[カール10世 (スウェーデン王)|カール10世]]は、[[1655年]]からポーランド、デンマークと戦争を起こし[[1661年]]まで続いた([[北方戦争]])。侵攻したポーランドではスウェーデン軍の蛮行によって共和国を荒廃させたために孤立化し撃退されたが、{{仮リンク|スウェーデン領リヴォニア|en|Swedish Livonia}}は確定し、[[プファルツ王朝|プファルツ朝]]も承認され、王位継承問題は解消された。また、ロシアのバルト海進出もこの時は抑止された([[大洪水時代]])。[[1658年]]にはデンマークから[[スコーネ]]を奪い、スウェーデンは膨張の極みに達した。この時代がスウェーデンの絶頂期とも言われている<ref>百瀬、熊野、村井、pP150。</ref>。しかしその後のスウェーデンは、北方戦争で国力が疲弊したこともあり、[[1670年代]]には周辺国との戦争に巻き込まれるなどしたが、[[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]が[[1680年]]に土地改革を行って自作農を増やしたり、国力の増強に努めた。この時代、[[プロイセン]]の勃興やデンマークの復讐戦などに手を焼いたものの、バルト帝国は維持され<ref>入江、p69 - p77。</ref>、[[絶対王政]]([[絶対君主制]])が開始された<ref>百瀬、熊野、村井、p152。</ref><ref>入江、p134 - p138、p145 - p146。</ref>。しかしスウェーデンの[[国力]]は[[大陸国家]]の範疇を出ず、[[植民地]]帝国の形成にまでは至らなかった<ref>ミュラー、p37 - p39。</ref>。
 
[[1697年]]に[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]が即位すると、バルト海の出口を求めるロシアの[[ピョートル1世]]、デンマーク・ポーランド連合軍と[[1700年]]に始まる[[大北方戦争]]を戦った([[反スウェーデン同盟]])。スウェーデンは開戦初期にデンマークを同盟から引きずり下ろし([[1709年]]まで)、ロシアとの[[ナルヴァの戦い]]にも勝利して、カール12世は「北方のアレクサンドロス」の異名をとった。スウェーデンは一時ポーランドを[[傀儡政権|傀儡国家]]にすることに成功し、[[1706年]]にスウェーデンの勢威は再び頂点に達するが、残る対ロシア戦におけるロシア遠征において、[[冬将軍]]と[[焦土作戦]]によってスウェーデン軍は疲弊した。その間に体勢を立て直したロシアとの1709年の[[ポルタヴァの戦い]]で大敗を喫し<ref>武田、p79 - p81。</ref>、カール12世は[[オスマン帝国]]に落ち延びた。劣勢は覆せず、その間に反スウェーデン同盟は再構築された。バルト海でも[[ロシア海軍]]に敗北し、[[制海権]]を失うと共に[[1718年]]にノルウェー侵攻中のカール12世が戦死し、バルト帝国は崩壊した。その妹[[ウルリカ・エレオノーラ (スウェーデン女王)|ウルリカ・エレオノーラ]]が即位するが、戦況はスウェーデンに不利に転じ、[[1720年]]までにデンマークを含めたバルト海沿岸諸国や[[神聖ローマ帝国]]諸侯と講和し、[[1721年]]の[[ニスタット条約]]で[[リヴォニア]]、[[エストニア公国|エストニア]]、[[カレリア]]などバルト海沿岸の覇権を喪失した<ref>百瀬、熊野、村井、p156 - p159。</ref>。
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このころからスウェーデン宮廷では[[メッソナ党]]と[[ハッタナ党]]による派閥争いが熾烈を極め、王権は弱体化し、派閥に属する貴族による議会が国政を取り仕切る「[[自由の時代]]」となった<ref>百瀬、熊野、村井、p159 - p161。</ref><ref>武田、p94 - p105。</ref>。比較的平和な時代が続き、[[生物学]]の[[カール・フォン・リンネ|リンネ]]などが活躍し、学芸が大いに発展した。しかしスウェーデンの対外的国力は低下していき、かつての「[[バルト帝国|バルト海の覇者]]」の面影はなくなってしまった。
 
このようなスウェーデンの没落を憂慮した[[啓蒙専制君主]][[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]は、[[1772年]]に[[クーデター]]によって[[王権]]を復活させ、[[1790年]]までに[[絶対君主制]]を復活させた。さらに強力に内政を充実させ、外交では[[フランス王国]]と提携し、[[エカチェリーナ2世]]時代の[[ロシア帝国]]と対抗した。グスタフ3世は[[ロシア・スウェーデン戦争]]を起こし、[[バルト海]]での[[勢力均衡|パワーバランス]]をある程度回復させた。さらに[[アメリカ独立戦争における外交#スウェーデンのアメリカ合衆国認証|アメリカ独立戦争における外交政策]]<ref group="注">ミュラー、p131 - p132。{{要出典範囲|『[[アメリカ・スウェーデン友好通商条約]]』等。|date=2015年3月}}</ref><ref>ミュラー、p131 - p132。</ref><ref>百瀬、熊野、村井、p181 - p183。</ref>や[[フランス革命]]への[[反革命]]政策などを行った<ref>武田、p116 - p117。『group="注">[[反革命十字軍]]も参照されたい。</ref><ref>武田、p116 - p117。</ref>。グスタフ3世はスウェーデン中興の実を挙げたが、[[1792年]]に[[暗殺]]された<ref>百瀬、熊野、村井、p184。</ref><ref>武田、p124 - p125。</ref>。グスタフ3世とその息子の時代は「グスタフ朝時代」と呼ばれ、また、グスタフ3世自身の治世は「[[ロココ]]の時代」と呼ばれている<ref>武田、p131。</ref>。
 
その後、[[フランス革命戦争]]が起こり、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]が登場すると、スウェーデンは[[第三次対仏大同盟|第三次]]、[[第四次対仏大同盟]]に参加したが、敗北した。[[1809年]]には[[フランス第一帝政|フランス帝国]]の強制でフィンランドをロシアに譲渡することになった。この年、国王[[グスタフ4世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ4世]]がクーデターにより廃位され、[[立憲君主制]]に体制を改め<ref>百瀬、熊野、村井、p190 - p191。</ref>、翌年にナポレオンの元帥ベルナドットを王太子に迎えた。後の[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール14世ヨハン]]である。スウェーデンは王太子カール14世ヨハンの元でヨーロッパの解放に重要な役割を果たし、[[ナポレオン戦争]]において戦勝国となった。しかしフィンランドの奪還は諦め、代償としてノルウェーの獲得に留まる事となった([[キール条約]])。スウェーデンは戦勝国であったが、フィンランドや西ポメラニアなど、大陸側の領土を失った([[ウィーン会議]]。西ポメラニア割譲の代償に[[ザクセン=ラウエンブルク]]の取得を認められていたが、ノルウェーを獲得出来たことで、これを近接するデンマークに譲渡した)。しかしフランス人であるベルナドットの合理的な思考の元で、[[スカンディナヴィア半島]]の統一を幸運にも成し遂げ、以後のスウェーデンは保守主義に転じ、北欧はより一体化していく([[スウェーデン=ノルウェー]])<ref>武田、P163 - p164。</ref>。
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=== スウェーデンの近代===
[[Image:Skandinavism.jpg|right|175px|thumb|[[汎スカンディナヴィア主義]]]]
ナポレオン戦争後のスウェーデンは、カール14世の政策により今日の[[中立主義]]の芽が蒔かれたが<ref>武田、『北欧の外交』、p4 - p9。{{要出典範囲|「中立国スウェーデン(Neutrala Sverige)」または「戦時の中立のための非同盟」。|date=2015年3月}}スウェーデン年表p285では、[[1843年]]以降。</ref>、[[19世紀]]半ばになると、北欧全土が[[列強]]の脅威にさらされることとなり、スウェーデンを中心に[[汎スカンディナヴィア主義]](ノルマン主義)と呼ばれる運動が、北欧諸国民の間で盛んになった。これは列強への対抗心からの北ヨーロッパ統一の機運の高まりであった。この運動を利用して、[[オスカル1世 (スウェーデン王)|オスカル1世]]の大国復興を巡る駆け引きが行われたが、[[王権]]の低下と共に挫折した<ref>武田、p168 - p180。</ref>。[[1873年]]の[[スカンディナヴィア通貨同盟]]の成立は、汎スカンディナヴィア主義の数少ない成果であったが、[[1914年]]に解消された。
 
[[1872年]]に即位した[[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]は、汎スカンディナヴィア主義の幻想を[[ドイツ帝国]]の[[汎ゲルマン主義]]と重ね合わせたが、もはや国王の統治権は形骸化しつつあり、国王による国家牽引は時代遅れであった<ref>武田、P181。</ref>。その後スウェーデンでは民主化が進められ、[[1866年]]には[[二院制]]議会が置かれ、さらに[[1908年]]には成人男子による[[普通選挙]]制度が導入され<ref>百瀬、熊野、村井、p284。</ref>、[[1920年]]には労働者を支持基盤とする[[スウェーデン社会民主労働党|社会民主労働党]]が政権を獲得した。またこの時代は、[[アメリカ合衆国]]をはじめとした[[北アメリカ]]への大規模な[[移民]]が[[20世紀]]初頭まで続いた<ref>武田、p188。</ref>。
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ナポレオン戦争以後は戦争に直接参加しなかったため、スウェーデンには平和が到来した。学芸と科学技術が大いに発展し、[[探検家]][[スヴェン・ヘディン|ヘディン]]、作家[[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ|ストリンドベリ]]、[[経済学者]][[クヌート・ヴィクセル|ヴィクセル]]、[[ダイナマイト]]の発明者で[[ノーベル賞]]の設立者[[アルフレッド・ノーベル|ノーベル]]などの偉人が現れた。また、[[鉱山学|鉱山学者]]・探検家の[[アドルフ・エリク・ノルデンショルド|ノルデンショルド]]は、[[1879年]]に[[北極海航路]]を制覇した<ref>武田、p194。</ref>。
 
[[1905年]]には平和裏にノルウェーの独立を認め<ref>百瀬、熊野、村井、pP279 - p282。</ref><ref>武田、p182 - p186。</ref>、さらに[[第一次世界大戦]]([[1914年]]にスウェーデン、ノルウェー、デンマークの北欧3国王は、[[マルメ]]において中立宣言を行った([[三国国王会議]])<ref>百瀬、熊野、村井、p310 - p313。</ref><ref>武田、『北欧の外交』、p27 - p35。{{要出典範囲|国内世論上、親ドイツ的感情もあったが、政府は厳正中立を貫徹した。|date=2015年3月}}</ref>)、[[第二次世界大戦]]でも[[中立]]を維持した。第二次大戦中には、迫害されていた[[ユダヤ人]]の救出に尽力した[[ラウル・ワレンバーグ]]や、[[1945年]]の春に[[スウェーデン赤十字社]]とデンマーク政府が協力して[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]から助け出されたユダヤ人を[[中立国]]のスウェーデンへ脱出させる[[白バス]]計画が実施された。
 
戦後は[[国際連合|国連]]に加盟し、国連の第2代[[国際連合事務総長|事務総長]]に[[ダグ・ハマーショルド|ハマーショルド]]を排出した。ハマーショルドは、[[第三世界]]の紛争の調停役となるなどしたが、[[冷戦]]ただ中の[[1961年]]に墜落死した(ハマーショルドは死後、[[ノーベル平和賞]]を授与された)。また国連の外交官には、スウェーデン王家であるベルナドッテ家の一員の[[フォルケ・ベルナドッテ]]もいたが、国連[[パレスティナ]]調停官に任命され、[[第一次中東戦争]]に赴いたが[[シオニズム|シオニスト]]の過激分子に暗殺された。スウェーデンに限らず、北欧諸国が国連において中立的克つ、人道的な姿勢をとったことは「北欧ブロック」と呼ばれ評価されている<ref>百瀬、熊野、村井、p394 - p395。</ref>。スウェーデンは戦後、北欧三国中立防衛同盟(スカンディナヴィア防衛同盟)を構想したが、第二次世界大戦期の中立政策の批判もあり、交渉は難航し、最終的に同盟は不成立に終わり、デンマークとノルウェーは[[北大西洋条約機構|NATO]]に加盟した<ref>百瀬、熊野、村井、p362 - p364。</ref>。また、[[ソ芬戦争]]におけるスウェーデンの中立は、フィンランドを失望させたこともあり、戦後はよりフィンランドに配慮するようになり、[[ソビエト社会主義共和国連邦|ソ連]]を刺激しないため、スウェーデンはNATOにも加盟せず、[[武装中立]]政策を推進した。こうした情勢の中で北欧は、[[ノルディックバランス]]の時代に入った<ref>百瀬、熊野、村井、p390 - p396。</ref>。
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===スウェーデンの現在 ===
[[冷戦]]時代においては、[[1952年]]に[[北欧理事会]]がデンマーク・[[コペンハーゲン]]に設立されて北欧諸国とともに加盟し<ref>百瀬、熊野、村井、P384 - p390。</ref>、[[ノルディックバランス]]を構築するも、スウェーデンの中立政策は、度々[[ソビエト社会主義共和国連邦|ソビエト]]に阻害された。その都度外交問題となったが、スウェーデンは[[西側諸国]]の助けを求めることは無かった(ただし、冷戦が「熱戦」になった場合のみ、スウェーデンも西側に立ってソ連と開戦する密約をNATOと結んでいた事が冷戦終結後に明らかとなっている<ref>武田、『北欧の外交』、p78、p92。{{要出典範囲|開戦と言うよりは、米国やNATOとの国防計画の協力関係。|date=2015年3月}}</ref>)。しかし[[バルト海]]は、冷戦時代の[[東側諸国]]との最前線でもあったため、自力で[[国防]]を高めねばならなかった。[[1950年代]] - [[1960年代]]の[[スウェーデンの原子爆弾開発]]計画もその一環であり、計画が頓挫した後は、独自の[[潜水艦]]・[[戦闘機]]・[[装甲戦闘車両|戦闘車両]]などの開発に重心を置いたように冷戦期は重[[武装中立]]国家だった。冷戦後は、スウェーデンにとって直接脅威となるような国は見られなくなったため、軍事予算は削減し、[[2010年]]に[[徴兵制度|兵役の義務]]は廃止された。そして[[中立主義]]も事実上放棄し、他国との協調関係を構築するようになった。しかし現在においてもスウェーデンは、[[軍需産業]]を推進し、近世以来の武器輸出国としての実績と伝統を今日まで維持し続けている<ref>武田、『北欧の外交』、p80 - p82。</ref>。
 
スウェーデンが世界に誇る[[福祉]]政策は、[[1932年]]から[[1976年]]まで続いた[[スウェーデン社会民主労働党|社会民主労働党]]政権によって推進された。この政策は第二次世界大戦後の経済成長期にスウェーデンを世界有数の「福祉大国」([[福祉国家|福祉国家論]]におけるスウェーデン・モデル)にすることに成功したが、[[1990年代]]には行き詰まりを見せはじめた。[[1991年]]の総選挙で半世紀ぶりに政権交代がなされ、保守政権が誕生した。しかしこの政権は経済運営に失敗し、[[1994年]]には社会民主労働党が政権を奪還する。新政権は福祉政策の弱点であった国際金融での立場の弱さを克服するため、[[欧州連合|EU]]の加盟にこぎつけた([[1995年]])。社会民主労働党政権は、経済を順調な成長軌道に乗せ、[[1997年]]には財政再建に成功する。再建された財政でスウェーデン人は再び福祉政策を増強することを選び、現在に至っている。社会民主労働党は、[[2006年]]に[[穏健党]]に政権を譲ったが、[[2014年]]に再び政権に返り咲いた。両党とも福祉国家擁護の立場をとっており、政策の違いは現在の処、ほとんど無くなっている。
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== 年表 ==
* 793年  - デンマーク・ヴァイキングが[[スコットランド]]を襲撃。[[ヴァイキング]]時代の開始。スウェーデンは主に東方に進出。[[ヴァリャーグ]]と呼称される。ヴァリャーグは9世紀初頭、[[ルーシ・カガン国]]を建国
* 829年/830年  - キリスト教[[伝道師]][[:en:Ansgar|アンスガル]]ら、デンマーク([[ヘーゼビュー]])とスウェーデン([[ビルカ]])に布教
* 850年代  - アンスガル、ビルカに再訪。王の後押しを受け、布教を推し進めるが、抵抗を受け撤退<ref>百瀬、熊野、村井、p52。</ref>
* 860年頃  - [[ノルマン人]]([[スヴェーア人]]?)、[[コンスタンティノポリス|コンスタンティノープル]]襲撃<ref>G.ファーバー、p117 - p118。</ref> 
* 862年頃  - [[スタラヤ・ラドガ|ラドガ]]の支配者、[[ルーシ族|ルス族]]の[[リューリク]]が[[ノヴゴロド公国]]建国
* 882年頃  - [[イーゴリ1世|イーゴリ]]、[[オレグ (キエフ大公)|オレーグ]]を後見人に[[キエフ大公国]]建国
* 1000年頃/1008年頃  - スウェーデンの[[オーロフ (スウェーデン王)|オーロフ・シェットコンヌング]]王が[[イギリス人|英国人]][[宣教師]]によって[[洗礼|受洗]]([[西方教会]])
* 1019年  - オーロフの娘[[インギゲルド・オロフスドッテル]]がノヴゴロド公[[ヤロスラフ1世]]と結婚
* 1142年  - スウェーデン軍が[[バルト海]]でノヴゴロド商隊を攻撃(『ノヴゴロド第一年代記[[:ru:Новгородская первая летопись|(ru)]]』)。[[スウェーデン・ノヴゴロド戦争]]の始まり(-1445年)
* 1154年/1155年  - スウェーデンの[[エリク9世 (スウェーデン王)|エーリク9世]](聖王)、[[北方十字軍]]を起こし、フィンランド侵攻
* 1240年  - ノヴゴロド公[[アレクサンドル・ネフスキー]]が、[[ネヴァ河畔の戦い]]でスウェーデンを撃破すると伝えられる
* 1319年  - [[ノルウェー]]と[[同君連合|人的同君連合]](-1355年)
* 1323年  - ノヴゴロド公国とシュルッセルブルグの和議。[[十字軍]]の終了([[スウェーデン=フィンランド]]の成立 -1809年)
* 1335年  - スウェーデン=フィンランドで[[奴隷制]]を廃止(「[[キリスト教徒]]の両親によって生まれた奴隷」の全てを解放)
* 1349年/1350年  - [[ペスト]]襲来
* 1370年  - [[ハンザ同盟]]と共に[[デンマーク]]に対抗。{{仮リンク|シュトラルズントの和議 (1370年)|en|Treaty of Stralsund (1370)|label=シュトラルズントの和議}}で和睦
* 1389年  - スウェーデン王[[アルブレクト (スウェーデン王)|アルブレクト]]、デンマークに敗れ廃位
* 1396年  - ノルウェー王[[エーリク7世 (デンマーク王)|エイリーク3世]]がスウェーデン王エリク13世及びデンマーク王エーリク7世として即位
* 1397年  - [[摂政]][[マルグレーテ1世]]による[[カルマル同盟]]成立
* 1435年  - デンマークに対抗するため、全国議会を招集([[身分制議会]]の創始<ref>百瀬、熊野、村井、p110。</ref>)
* 1450年  - ノルウェーと分離(デンマークの[[オルデンブルク朝]]との連合をノルウェーが容認)
* 1477年  - [[ウプサラ大学]]設立
* 1520年  - [[ストックホルムの血浴]]
* 1523年  - グスタフ・ヴァーサ即位。スウェーデン王国の成立([[ヴァーサ王朝|ヴァーサ朝]] -1654年)
* 1527年  - [[ヴェステロース]]全国身分制議会、[[グスタフ1世 (スウェーデン王)|グスタフ1世]]による法律・教会改革(スウェーデンの[[宗教改革]]<ref>百瀬、熊野、村井、p130 - p132。</ref>)
* 1544年  - 世襲制の確立と[[スウェーデン海軍]]設立
* 1555年  - ヨハンネス・マグヌスが歴史書「ゴート人たちとスウェーデン王国の歴史」を編纂([[ゴート起源説]]の起り)
* 1558年  - [[リヴォニア戦争]](-1583年)
* 1563年  - [[北方七年戦争]](-1570年)
* 1581年  - [[ヨハン3世 (スウェーデン王)|ヨハン3世]]、[[フィンランド大公]]登位
* 1587年  - ポーランド王にスウェーデン王太子[[ジグムント3世|シギスムンド]]即位(ポーランド・ヴァーサ朝 -1668年)
* 1592年  - シギスムンド、スウェーデン王に即位(-1598年)
* 1600年  - リンチェピングの血浴、スウェーデン、[[ルーテル教会|ルター派]]を[[国教]]化
* 1609年  - [[動乱時代|ロシア大動乱]]に参戦(-1617年)
* 1611年  - [[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]即位
* 1621年  - [[スウェーデン・ポーランド戦争]](-1629年)
* 1630年  - [[三十年戦争]]に介入
* 1632年  - グスタフ・アドルフ戦死、[[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ]]女王即位
* 1638年  - [[北アメリカ大陸|北米大陸]]へ植民([[ニュースウェーデン]])
* 1643年  - [[トルステンソン戦争]]( -1645年)。北欧の[[覇権]]を確立
* 1648年  - [[ヴェストファーレン条約]]
* 1654年  - [[カール10世 (スウェーデン王)|カール10世]]即位([[プファルツ王朝|プファルツ朝]] -1720年)
* 1655年  - [[北方戦争]](-1661年)
* 1660年  - [[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]即位(1672年[[親政]])
* 1666年  - [[ルンド大学]]設立。[[記念物]]保護の布告(ヨーロッパの国家で初)
* 1675年  - [[オランダ侵略戦争]]に参戦(-1679年)
* 1686年  - [[ドロットニングホルム宮殿]]完成
* 1689年  - [[大同盟戦争]](-1697年)
* 1697年  - [[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]即位
* 1700年  - [[大北方戦争]](-1721年)
* 1712年  - [[スウェーデン暦|スウェーデン独自暦]]を廃止
* 1718年  - カール12世戦死、スウェーデンの没落
* 1720年  - [[ウルリカ・エレオノーラ (スウェーデン女王)|ウルリカ・エレオノーラ]]女王退位([[ヘッセン王朝|ヘッセン朝]] -1751年、[[自由の時代]] -1771年)
* 1721年  - [[ニスタット条約]]
* 1731年  - [[スウェーデン東インド会社]]設立
* 1741年  - {{仮リンク|ロシア・スウェーデン戦争 (1741-1743)|en|Russo-Swedish War (1741–43)|label=ハット党戦争}}(-1743年)
* 1751年  - [[アドルフ・フレドリク (スウェーデン王)|アドルフ・フレドリク]]即位([[ホルシュタイン=ゴットルプ王朝|ホルシュタイン=ゴットルプ朝]] -1818年)
* 1756年  - [[七年戦争]]に参戦(-1763年)
* 1772年  - [[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]による[[クーデター]]([[ロココ]]の時代)
* 1780年  - [[武装中立同盟]]に参加
* 1783年  - [[アメリカ・スウェーデン友好通商条約]]
* 1788年  - [[第一次ロシア・スウェーデン戦争|ロシア・スウェーデン戦争]](-1790年)
* 1789年  - [[フランス革命]]に干渉(-1792年)
* 1792年  - グスタフ3世[[暗殺]]
* 1798年  - [[ラシュタット会議]]、[[ハンス・アクセル・フォン・フェルセン|フェルセン]]による[[フランス革命戦争]]の講和会議(失敗)
* 1805年  - [[ナポレオン戦争]]に参戦
* 1809年  - [[第二次ロシア・スウェーデン戦争|ロシア・スウェーデン戦争]](-1809年)、[[フィンランド]]を奪われる(スウェーデン=フィンランドの分割)
* 1810年  - [[フランス帝国]][[元帥]]ベルナドット(後のカール14世ヨハン)を[[王太子]]に推挙
* 1813年  - [[解放戦争 (ドイツ)|解放戦争]]に参戦
* 1814年  - [[ウィーン会議]]、フィンランド割譲の代わりにノルウェーと[[同君連合|人的同君連合]]([[スウェーデン=ノルウェー]] -1905年)
* 1818年  - [[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール14世ヨハン]]即位([[ベルナドッテ王朝|ベルナドッテ朝]])
* 1843年  - [[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]と[[ロシア帝国]]に対して[[中立]]政策を表明([[中立主義]]の創始<ref>武田、『北欧の外交』、スウェーデン年表、p285。</ref>)
* 1844年  - [[オスカル1世 (スウェーデン王)|オスカル1世]]即位、[[汎スカンディナヴィア主義]]を推奨
* 1848年  - 第一次[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]に干渉(-1852年)
* 1852年  - [[神聖同盟|欧州列強]]と[[ロンドン議定書]]を締結
* 1855年  - [[クリミア戦争]]への干渉(-1856年) 
* 1864年  - 第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争、汎スカンディナヴィア主義の挫折
* 1866年  - [[二院制]]議会設立
* 1872年  - [[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]即位、[[ドイツ帝国]]の[[汎ゲルマン主義|ゲルマン主義]]を支持
* 1873年  - [[スカンディナヴィア通貨同盟]]締結
* 1879年  - [[探検家]][[アドルフ・エリク・ノルデンショルド|ノルデンショルド]]の[[北極海航路|北東航路]]制覇
* 1889年  - [[スウェーデン社会民主労働党|社会民主労働党]]設立
* 1901年  - [[ノーベル賞]]設立
* 1905年  - ノルウェー独立
* 1912年  - [[ストックホルムオリンピック]]開催
* 1914年  - [[第一次世界大戦]]に対し中立宣言([[三国国王会議]])
* 1918年  - [[オーランド諸島]]帰属問題(-1921年)<ref>武田、『北欧の外交』、p35 - p39、p106 - p107。</ref>
* 1919年  - [[国際連盟]]に加盟
* 1939年  - フィンランドとのオーランド共同防衛計画(北欧軍事同盟構想、失敗)
* 1940年  - [[ナチス・ドイツ]]の[[ヴェーザー演習作戦|北欧侵攻]]、スウェーデンは[[中立]]維持([[第二次世界大戦]])
* 1945年  - [[スウェーデン赤十字社]]とデンマーク政府による[[白バス]]計画実施
* 1946年  - [[国際連合]]に加盟
* 1947年  - [[ルター派世界連盟]]設立
* 1949年  - 北欧三国防衛同盟の提唱(失敗)<ref>武田、『北欧の外交』、p71 - p74。</ref>
* 1952年  - [[北欧理事会]]に加盟
* 1952年  - [[カタリナ事件]]
* 1960年  - [[欧州自由貿易連合|EFTA]]加盟
* 1961年  - [[パルメ委員会]]([[国連軍縮委員会]])設立
* 1971年  - [[一院制]]へ移行
* 1979年  - スウェーデン憲法改正(王位継承法含む)、儀礼的国家元首制へ移行
* 1981年  - [[ウィスキー・オン・ザ・ロック]]事件
* 1992年  - [[バルト海諸国理事会]]設立
* 1995年  - [[欧州連合]]へ加盟<ref>武田、『北欧の外交』、p86 - p96。{{要出典範囲|安全保障の面で事実上、中立主義を放棄。|date=2015年3月}}</ref>
* 2003年  - [[ユーロ]]不参加を決定
* 2007年  - [[ムハンマド風刺漫画掲載問題]]
* 2010年  - [[2010年ストックホルム爆破事件|ストックホルム爆破事件]]
 
== スウェーデンの王朝(独立後) ==
* [[ヴァーサ王朝]](1523年 - 1654年)
* [[プファルツ王朝]](1654年 - 1720年)
* [[ヘッセン王朝]](1720年 - 1751年)
* [[ホルシュタイン=ゴットルプ王朝]](1751年 - 1818年)
* [[ベルナドッテ王朝]](1818年 - )
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<div class="references-small"><references group="注"/></div>
=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{正確性|date=2015年3月|section=1|武田、ブレジンスキーの著作は複数ありますが、姓だけで書名がない脚注があり、出典の文献を特定できません}}
<div class="references-small">{{Reflist|2}}</div>
 
== 参考文献 ==
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{{節stub}}
* {{Cite book |和書 |author=入江幸二 |title=スウェーデン絶対王政研究 |date=2005-12 |publisher=[[知泉書館]] |isbn=978-4-901654-62-3}}
 
* {{Cite book |和書 |author=菊池良生 |authorlink=菊池良生 |date=1995-12 |title=戦うハプスブルク家 - 近代の序章としての三十年戦争 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社現代新書]] 1282 |isbn=978-4-06-149282-0}}
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* [[菊池良生]] 『戦うハプスブルク家 {{smaller|-近代の序章としての三十年戦争-}}』 [[講談社]]、1995年。
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* リチャード・{{Cite book|和書 |last=ブレジンスキー著、 |first=リチャード |others=小林純子訳 |title=グスタヴ・アドルフの{{smaller|- 北方の獅子と三十年戦争 |date=2001-}}』06 |publisher=[[新紀元社、2001年。]] |series=オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ |isbn=978-4-88317-881-0}}
* {{Cite book|和書 |last=ブレジンスキー |first=リチャード |others=小林純子訳 |title=グスタヴ・アドルフの騎兵 - 北方の獅子と三十年戦争 |date=2001-10 |publisher=新紀元社 |series= オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ |isbn=978-4-7753-0003-9}}
* [[入江幸二]] 『スウェーデン絶対王政研究 {{smaller|-財政・軍事・バルト海帝国-}}』 [[知泉書館]]、2005年。
* {{Cite book |和書 |last=ページ |first=レイ |authorlink=:en:R. I. Page |others=[[菅原邦城]]訳 |title=ルーン文字 |date=1996-04 |publisher=学芸書林 |series=大英博物館双書 失われた文字を読む 7 |isbn=978-4-87517-017-4}}
* [[伊藤宏二]] 『ヴェストファーレン条約と神聖ローマ帝国 {{smaller|-ドイツ帝国諸侯としてのスウェーデン-}}』 [[九州大学出版会]]、2005年。
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* G・ファーバー、[[片岡哲史]]・[[戸叶勝也]]訳 『ヴァイキングの足跡 {{smaller|-「海賊・冒険・建国の民」ノルマン人の謎-}}』 [[三修社]]、1997年。
* レイ・ページ、[[菅原邦城]]訳 『ルーン文字』 [[學藝書林]]、1996年。 
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
 
== 関連項目 ==
* [[スウェーデン君主一覧]]
* [[スウェーデン語の歴史]]