「カリーニングラード」の版間の差分

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'''カリーニングラード'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Калининград}}'''〔<small>カリニングラート</small>〕、ラテン文字転写の例:Kaliningrad )は、[[ロシア|ロシア連邦]]西部にある[[カリーニングラード州]]の[[州都]]である。[[バルト海]]に接する港湾都市で、人口は約42万人。カリーニングラード州は[[ポーランド]]と[[リトアニア]]に挟まれたロシアの[[飛地]]領で人口はおよそ95万人、世界有数の[[琥珀]]の産地としても有名である
 
カリーニングラードはもともと[[1255年]]に[[ドイツ人]]の[[東方植民]]によって建設された都市で、[[1946年]]まで使われていた旧名は'''ケーニヒスベルク'''('''{{lang|de|Königsberg}}''';ドイツ語で「王の山」の意)。[[20世紀]]前半までは[[ドイツ]]の東北辺境の重要都市であった。
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== 歴史 ==
[[ファイル:Deutsches Reich1.png|none|thumb|300px|[[ドイツ帝国]]の地図。最東端がケーニヒスベルクを州都とする[[東プロイセン]]。]]
 
=== ケーニヒスベルクとしての歴史 ===
{{main|ケーニヒスベルク (プロイセン)}}
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[[第一次世界大戦]]後、旧ドイツ帝国の東部領土が割譲され、ドイツや[[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア]]によって分割されていた[[ポーランド]]が独立を果たした。その際、ポーランド北部のバルト海に面した地域にあたる旧プロイセン公国の領域のうち、自由都市として残された[[グダンスク|ダンツィヒ]](グダンスク)を除いた「[[西プロイセン]]」は、ポーランドの海への出口([[ポーランド回廊]])としてポーランドに割譲された。ケーニヒスベルクを中心とする「[[東プロイセン]]」はドイツ領として残されたが、ドイツ本国との陸上路が閉ざされ、孤立した飛び地となった。
 
のちにドイツで政権を握った[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]の[[アドルフ・ヒトラー]]は、ポーランド侵攻直前に飛び地解消を名目にポーランド回廊の領土返還を要求したが、[[権威主義]]的な[[ユゼフ・ピウスツキ|ピウスツキ]]政権下のポーランド側は[[ミュンヘン会談]]の取り決め(ドイツは英・仏・伊に対し[[チェコスロバキア]]から併合した[[ズデーテン|ズデーテン地方]]以外に領土要求はしないと約束した)を盾にドイツの領土要求を拒否したため、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、それに怒った英仏がドイツに宣戦布告して、[[第二次世界大戦]]が始まった。これにより東プロイセンは再びドイツ本土と陸路で結ばれることとなった。
 
=== ソビエト領カリーニングラードへ ===
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=== 冷戦後 ===
ところが冷戦崩壊後に[[リトアニア]]がソ連から独立した結果、カリーニングラード州は今度はソ連・ロシア連邦の飛び地となってしまった。さらに冷戦後の造船需要の悪化で造船業が衰退して失業率が増加し、市民の4割が貧困層といわれるほど経済状況が悪化、琥珀も密売者の間で高騰する事態となった。ソ連崩壊後の一時期は東欧各国の中心にある地理的特性を活かして「バルト海の[[香港]]」としようという夢が語られたが、それとは程遠い状態になりつつある。ソ連崩壊直後にロシアはここをポーランド領とする案を用意(代わりにドイツは[[シュチェチン]]を得るという話であった)したものの頓挫、結局そのまま放置されるに至った。
 
カリーニングラードの経済は崩壊し、この町が東ヨーロッパの中心に位置するということもあって、[[麻薬]]取引、[[人身売買]]、盗難車の取引中継地など、東欧・旧ソ連全域を舞台にしたさまざまな犯罪の拠点に使われるほど治安が悪化、[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]などの感染症も蔓延し始めた。さらに、軍事都市時代の有害な廃棄物が放置されており、住めない土地が各地に広がっていた。もはやこの都市の存在が、ロシアにとってもポーランド・リトアニアなど周辺諸国にとっても頭痛の種となってしまっていた。
 
[[ファイル:Kaliningrad cathedral.JPG|250px|right|thumb|ソ連崩壊後に再建されたクナイプホーフのケーニヒスベルク大聖堂]]
[[ファイル:TramKaliningrad4.JPG|250px|right|thumb|カリーニングラード市電 (2001年)]]
[[ファイル:TramKaliningrad.jpg|250px|right|thumb|カリーニングラード市街と市電]]
独立後10年を経て、ロシア政府は[[ウラジーミル・プーチン]]大統領のリュドミラ夫人(当時。2013年離婚)がカリーニングラード出身ということもあってカリーニングラードの復興をてこ入れすることにし、経済対策として経済特区を設け、輸入関税を免除するなど外貨獲得を目指した。しかし、当初はロシア国内向けの家電組立工場が多数成立した他は特区の効果はあまり出ず、さらに[[2004年]]に周囲を取り囲むリトアニアとポーランドが共に[[欧州連合|EU]]に加盟したため、カリーニングラードとロシア本土との通行にリトアニアがビザを科すようになったなど、周囲との通行に障害が生じ、先の見通しが立たないとまで言われる状況に陥った。
 
ところがその後、ロシア本土との通行にリトアニアのビザ取得が簡素化され、物流も整備された結果、カリーニングラードの経済は驚異的な成長を遂げている。2006年10月16日付の、[[英国放送協会|BBC]]の『カリーニングラード、過去の汚名をそそぐ』と題された記事では次のようなことが述べられている<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6048708.stm "Kaliningrad erases stains of past"], By Laura Sheeter, BBC News, Kaliningrad, Russia :Monday, 16 October 2006, 14:03 GMT</ref>。