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'''ヴァージニア・ウェード'''('''Virginia Wade''', [[1945年]][[7月10日]] - )は、[[イギリス]]・[[ボーンマス]]出身の女子[[テニス]]選手。[[1977年]]の[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]女子シングルス優勝者で、同選手権大会における現時点で最後のイギリス人優勝者として知られる。イギリスの人々には“Our Ginny”(われらのジニー)と呼ばれて敬愛されている。[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]3勝を含めて、[[WTA]]ツアーにシングルス通算55勝を挙げた。
 
ウェードがプロテニス選手に転向した[[1968年]]は、[[テニス]]の歴史の中でも最大の転換期に位置する。この年に[[グランドスラム (テニス)|テニス4大大会]]の「オープン化」が実施され、プロ選手たちに出場の道が開かれた。それ以前は、4大大会の出場資格はアマチュア選手に限定されていた。成功を収めた多くの一流選手たちがプロに転向したため、世界一の威信を誇るウィンブルドン選手権でさえも、世界最強レベルの選手の姿が消えるジレンマが長期間続いていた。そのため、「オープン化」という措置によってプロ選手にも4大大会出場の道を開いたのである。その年に、ウェードはアマチュア選手として故郷の[[ボーンマス]]で開かれた「全英ハードコート選手権」で優勝する。その5ヶ月後、ウェードはプロ選手として[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]で4大大会に初優勝を飾る。決勝で[[ビリー・ジーン・キング]]夫人([[アメリカ合衆国|アメリカ]])を 6-4, 6-2 で破り、オープン化された同時代大会」としての同選手権で最初の優勝者になった。([[1968年]]と[[1969年]]の2年間は、暫定措置として全米選手権大会が2度開催された。9月に行われた「オープン化時代大会」(英語:Open Era Grand Slam)の優勝者が大会公認の優勝者として記載されるため、[[1968年]]はウェードが正式な優勝者として扱われる。[[全米オープンテニス女子シングルス優勝者一覧]]も参照。)[[1972年]]の[[全豪オープン]]で、ウェードは4年ぶりとなる4大大会2勝目を挙げ
 
ウェードのテニス人生最大のハイライトは、何と言っても[[1977年]]の[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]選手権大会である。準決勝で大会前年優勝者の[[クリス・エバート]]を 6-2, 4-6, 6-1 で破ったウェードは、決勝で[[ベティ・ストーブ]]([[オランダ]])と対戦することになった。決勝戦のセンター・コートは1万4000人の満員の観客で埋め尽くされ、この年に即位25周年を迎えたイギリス女王[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス2世]]の見守る中、ウェードはストーブに 4-6, 6-3, 6-1 の逆転勝利を収め、自身17度目の挑戦でウィンブルドン選手権に初優勝を果たした。これはウェード自身にとっても、32歳の誕生日の9日前に達成した記念碑的な偉業であった。