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空襲内容
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当時、敦賀は中京地域や阪神地域から軍の部隊や物資、市民らが疎開先として避難していた。敦賀市史によれば、空襲を受けるはずがないと油断があったという。それでも敦賀は日本海側有数の港であり、大陸側との航路が多数設定されていた手前、防空設備も一応整えていた。折しも受けるはずが無いという希望を打ち砕くことになり市史史上未曾有の大災難となったのである。
 
戦時中敦賀には、松原などに[[高射砲]]陣地が築かれ、寄航する艦船(当時の艦船は高射砲など、武装が施されていた)にも[[高角砲]]などが装備されていた、さらに敦賀連隊の本拠、疎開してきた軍の部隊と言うことの存在もあり田舎町としては比較的戦力や防空体制が整っていた。そのため折しも夜9時ごろに出された福井県空襲警戒警報などを駆使し迎え撃つことになり、空襲時敦賀に駐屯する日本軍は[[気比の松原]]の高射砲陣地や、停泊中の艦船から高射砲弾を撃ち上げ激しく抵抗。アメリカ側は敦賀市街を東から西へ横切ったが、これが日本側の陣地をも横切ることになり戦闘は熾烈さを極めた。炸裂した高射砲弾の破片が雨あられのように山奥の和久野地区など敦賀中に降り注いだと言う。米機の攻撃は翌13日午前2時頃まで続き、『敦賀空襲・戦災誌』によれば、一連の交戦で日本軍守備隊1名が戦死、市民が火に捲かれ109名が死亡、市街地の85パーセント以上を消失・焦土と化するなど戦闘・空襲により甚大な被害が出た。後の30日には停泊中の艦船に被害が出ているが、このときの艦船にどのような被害が出たのかは資料に記載が無く、次いでアメリカ側の損害なども資料が無く共に一切が不明である。
 
死者は109名、負傷者は201名である。アメリカ側の記録では160名。