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新見錦は変名であり、水戸浪士で、[[芹沢鴨]]の前名とされる下村嗣次と玉造文武館党の同志<ref>「常野集一」 茨城県立歴史館編『茨城県史料 幕末編 III』 茨城県、p50~51 1993年</ref>だった、新家粂太郎が本名であるという説が存在する。
 
新家であれば[[神道無念流剣術|神道無念流]]剣客[[金子健四郎]]の門人であり、文久3(1863)年[[5月]]、水戸藩士[[吉成勇太郎]]と、芹沢鴨と「中山忠能日記」文中に芹沢鴨と共に前が現れる[[今泉与一太郎]]と共に借金連署した記録借用書が残っており、在京が確認できる <ref name="kyoto">『京都新聞』、2015年2月19日 「壬生浪士幹部?の借用証発見 同一人物説の新家粂太郎連署」</ref>。
6月16日、攘夷監察史[[正親町公董]]の陪従<ref>[[加藤常吉]]「加藤任重漫録」 『維新日乗纂輯 第二』、日本史籍協会 p383 1925年12月</ref>として長州に下り、暴飲から罪を得て、同年9月15日に死亡し、当時[[三田尻]]の車塚(現[[山口県]][[防府市]]車塚1)にあった[[蘆樵寺]]に埋葬されている<ref name="katou">[[加藤桜老]] 「復京日記」 『榊陰年譜 附加藤櫻老小傳』 [[笠間稲荷神社]]、p574 1979年10月</ref>。墓石は現存しない。没年(数え年)は28歳<ref name="katou" />であり、新見の年齢と一致する。
「新見久米次郎」との表記<ref>加藤「復京日記」 『榊陰年譜』 p609</ref>もされている。また吉成勇太郎は粂太郎を「私共迚も水府ニテ猶又壬生浪人も手ニ余し候を私共救取候」と記している<ref name="kyoto"></ref><ref>吉成勇太郎 『〔尊攘之儀ニ付建白書〕』、[[岡山大学]]附属図書館 池田家文庫 文久3年8月</ref>。
 
[[壬生寺]]に墓のある新選組隊士[[田中伊織]]と新見錦を同一人物とする説もあるが、根拠は示されていない。
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新見は芹沢と行動を共にする腹心といわれるが、壬生浪士幹部としての行動の実態はよく分らない。芹沢や近藤のことをよく覚えていた八木為三郎も新見については「まるきり覚えていない、いつの間にかいなくなった」と述べている。新選組幹部の[[永倉新八]]が記した『[[浪士文久報国記事]]』によると新見は乱暴が甚だしく、法令を犯して芹沢、近藤の説得にも耳を貸さなかったという。[[子母澤寛]]の『新選組始末記』によっても新見は遊蕩に耽って隊務を怠り、隊費と称して民家から強請り(ねだり)を繰り返していたという。
 
『新選組顛末記(新選組永倉新八)』によると悪行の数々を握られて切腹せねば法度に照らして[[斬首]]すると詰め寄られ、遊蕩先の祇園新地の料亭山緒でついに切腹させられたという。『浪士文久報国記事』によれば一同相談のうえ切腹と決まったが、またも四条木屋町に旅宿する水戸浪人吉成常郎(勇太郎の弟[[吉成恒次郎]](勇太郎の弟)と推定されている)に乱暴を働いたため梅津某の介錯で切腹させられたことになっており、真相はよく分からない。日付も『浪士文久報国記事』では8月14、15日となっており、判然としない。9月16日に芹沢と水戸派の[[平山五郎]]が試衛館派に襲撃・暗殺されており、新選組の水戸派は壊滅した。
 
なお、[[明治時代]]に長州派の志士を祀るため作られた霊山招魂社に、敵だったはずである新選組幹部の新見が祀られていること、[[暮地義信]]が維新時に活躍した志士を記した「近世高名一覧勤王為皇国」に名前がある事から、切腹は単純な乱暴狼藉ではなく水戸や[[長州藩|長州]]、[[土佐藩|土佐]]などの尊王攘夷派との親密な関係があったからではないかという説もある。