「レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム家」の版間の差分

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1597年、ルートヴィヒ3世は家内協定を定めて2人の息子に領土を分割相続させることを決めた。この家内協定は2人の息子たちが[[宗教改革]]において異なる宗派を信奉していたことが原因だった。こうして、レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム家は[[ルーテル教会|ルター派]]信徒のフィルネブルク系と、[[カトリック教会|カトリック]]信徒のローヒェフォルト系に分裂した。2つの系統は1597年の領土分割に際し、家領を構成する複数の伯爵領の地域区分を度外視して領土の分割線を引いたため、異常なまでに領国の統治・経営が難しくなった。
 
カトリック信徒であるローヒェフォルト系は宗派を同じくする[[ハプスブルク家|神聖ローマ皇帝家]]とも親しく、1711年には帝国諸侯([[フュルスト|ライヒスフュルスト]])に陞爵した。フィルネブルク系は101年後の1812年にようやく侯爵に陞爵したが、これもひとえに同族の[[バイエルン国王|バイエルン王家]]の温情のおかげであった。
 
19世紀初頭までに、両系統は「名字の地」であるローヒェフォルト(現在の[[ベルギー]]領[[ナミュール州]][[ロシュフォール (ベルギー)|ロシュフォール]])と[[フィルネブルク]]([[ラインラント=プファルツ州]]マイエン=コブレンツ郡)を失った。後に、カトリック系は[[ローゼンベルク (バーデン)|ローゼンベルク]]を本拠としてレーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク家と、ルター派系は[[フロイデンベルク (バーデン)|フロイデンベルク]]を本拠としてレーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=フロイデンベルク家を称した。