「中村草田男」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[清]]国(現[[中国]])[[福建省]][[廈門]]にて清国[[領事]]中村修の長男として生まれる。母方の祖父は松山藩久松家の重臣<ref name=DAIJITEN391392/>。[[1904年]](明治37年)数え年4歳の時、母とともに中村家の[[本籍]]地・[[愛媛県]][[伊予郡]][[松前町 (愛媛県)|松前町]]に帰国。2年後[[松山市]]に転居。小学校時代の大半を[[1908年、一家で東京市|東京]]で過ごし、に移り赤坂区青南尋常小学校(のち[[港区立青南小学校]])に通学する。1912年、再び松山に戻り松山第四小学校に転入。1914年、[[愛媛県立松山東高等学校|松山中学]]に入学。先輩に[[伊丹万作]]がおり兄事する存在となる。1916年、伊丹らとともに回覧同人誌「楽天」を制作。1918年、極度の神経衰弱にかかり中学を1年休学。復学した頃に[[ニーチェ]]の『[[ツァラトゥストラはこう語った|ツァラトゥストラかく語りき]]』に出会い生涯の愛読書となる<ref name=NENPU/>
 
1922年、[[松山高等学校 (旧制)|松山高等学校]]入学。直後に可愛がられていた祖母に死なれたことで不安と空虚に襲われ、その解決の鍵として哲学・宗教に至る道を漠然と思い描く<ref>『中村草田男』三橋敏雄解説 322頁。</ref>。[[1925年]]、一家で東京に移転、4月に[[東京大学|東京帝国大学]]文学部独文科に入学。[[チェーホフ]]や[[ヘルダーリン]]を愛読するが、1927年にふたたび神経衰弱に罹り翌年休学。このころに[[斎藤茂吉]]の歌集『朝の蛍』を読んで詩歌に目を開き、「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」を参考にしながら「平安な時間を持ち続けるための唯一の頼みの綱」となる句作を始める<ref>『中村草田男』三橋敏雄解説 323-324頁。</ref>。1929年、母び叔母の紹介で[[高浜虚子]]に会い、復学したのち東大俳句会に入会。[[水原秋桜子]]の指導を受け、「ホトトギス」9月号にて4句入選する。
中学時代は再び松山に戻り、[[愛媛県立松山東高等学校|松山中学]]、[[松山高等学校 (旧制)|松山高等学校]]を経て、[[1925年]]([[大正]]14年)[[東京大学|東京帝国大学]]文学部独文科に入学。しかし中途で国文科に転じた。[[1929年]]([[昭和]]4年)[[高浜虚子]]に師事し[[俳句]]を学ぶ。また[[東大俳句会]]に入門。[[水原秋桜子]]の勧めで「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」に投句。大学時代に久しぶりに母校の青南小学校を訪ねた。この時の感慨を詠んだ「'''降る雪や明治は遠くなりにけり'''」は、現在、句碑として当小学校内に建っている。
 
1931年、国文科に転じ、1933年卒業。卒論は「子規の俳句観」。卒業後[[学校法人成蹊学園|成蹊学園]]に教師として奉職。1934年、「ホトトギス」同人。1936年、縁談を経て福田直子と結婚。1938年より下北沢に住む。1939年、学生俳句連盟機関誌「成層圏」を指導。また『俳句研究』座談会に出席したことをきっかけに、[[石田波郷]]、[[加藤楸邨]]らとともに「人間探求派」と呼ばれるようになる。1945年、学徒動員通年勤労隊として福島県安達郡下川崎村に向かい、同地にて終戦を迎える。
[[1933年]](昭和8年)大学を卒業し、[[学校法人成蹊学園|成蹊学園]]に就職。現代俳句の中心的存在として、[[1946年]](昭和21年)月刊俳誌「[[萬緑]]」を主宰した。1963年と1975年には、それぞれ同人や会員の作品を収録した『萬緑合同句集』『萬緑合同句集2』が発行されている。
 
1946年、「成層圏」を母体として「萬緑(ばんりょく)」を創刊、終生まで主宰。1949年、[[1960年成蹊大学]](昭和35政経学部教授に就任、国文学を担当する。1954下高井戸転居。1959年、朝日俳壇選者。[[1960年]]、[[現代俳句協会]]幹事長となる。翌が、[[1961年]](昭和36年)現代俳句協会賞]]選考を巡って協会内で分裂し意見対立が起こったため1961年に協会を辞し新たに[[俳人協会]]を設立して初代会長に就任したする[[成蹊中学校・高等学校|成蹊高校]]の教諭の後1965年[[成蹊大学]]政経学部[[教授]]として通算33年間教鞭を執り[[1967年]](昭和42年)に定年退職後、非常勤講師となったのち、69年に同名誉教授。1972年、紫綬褒章。1974年、勲三等瑞宝章。[[1978年]](昭和53年)メルヘン集『風船の使者』により[[芸術選奨文部大臣賞]]受賞。
 
[[1983年]](昭和58年)[[8月5日]]、急性[[肺炎]]のため82歳で死去。死の前日[[洗礼]]を受けた。洗礼名を'''ヨハネ・マリア・ヴィアンネ・中村清一郎'''と名乗る[[]]は[[東京都]][[あきる野市]]の五日市霊園にある。没後の[[1984年]]、[[日本芸術院恩賜賞]]を受賞しが遺贈された<ref>『朝日新聞』1984年4月5日([[朝日新聞東京本社|東京本社]]発行)朝刊、22頁。</ref>。
 
妻直子との間に四人のをもうけている。お茶の水女子大学教授(フランス哲学)の[[中村弓子]]。孫[[遠山一行]]の長男[[遠山公一|公一]]と結婚した三女
 
== 作品 ==