「二見伸明」の版間の差分

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|元首 =
|国旗2 = 日本
|職名2 = [[国会議員|衆議院議員]]
|選挙区2 = ([[茨城県第3区_(中選挙区)|茨城県第3区]]→)<br/>[[比例北関東ブロック]]
|当選回数2 = 10回
|就任日2 = [[1969年]][[12月29日]]
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|元首職2 =
|元首2 =
}}'''二見 伸明'''(ふたみ のぶあき、[[1935年]][[2月10日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[国会議員|衆議院議員]](10期)、[[運輸大臣]]([[羽田内閣|第68代]])、[[公明党]]副委員長を歴任。
 
== 概要 ==
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[[公明新聞]]政治部長・第1成局長を経て、[[1969年]]12月の[[第32回衆議院議員総選挙|衆院選]]に公明党公認で茨城3区から出馬し当選。以後衆院議員を10期務め、[[1970年]]から[[1993年]]まで中央執行委員。この間、政策審議副会長([[1971年]]~[[1977年]])・国会対策副委員長(1977年~[[1980年]])・文化局長([[1984年]]~[[1998年]])・政策審議会長([[1990年]]~[[1993年]])を歴任。[[1993年]]に[[石田幸四郎]]委員長の下で党副委員長に就任。
 
[[1994年]]4月[[羽田内閣]]の発足で[[運輸大臣]]に就任。しかし2ヶ月で羽田内閣は[[内閣総辞職|総辞職]]。12月に[[公明新党]]を経て新進党結成に参加し、[[1997年]]11月の新進党党首選では[[小沢一郎]]党首を支持し再選させた。12月に新進党が解党すると、旧公明党出身ながら[[権藤恒夫]]らと共に小沢支持を鮮明にして、小沢と距離を置いていた[[市川雄一]]・[[神崎武法]]らのグル-プを牽制。二見らは翌[[1998年]]1月に小沢や[[中西啓介]]・[[藤井裕久]]らが中心となって結成した自由党に参加し、二見は総務委員長に就任した。同年11月には公明党が再結成されるも、権藤・[[東祥三]]らと共に自由党に残留した。
 
[[1999年]]1月に[[自自連立政権]]の発足で自由党は[[与党]]になるも、このことから出身母体の[[創価学会]]は二見と距離を置くようになる。10月には公明党も与党入りして[[自自公連立政権]]が発足、[[2000年]]1月には党常任幹事に就任するが、同年4月に自由党が連立離脱を表明し二見もそれに従うと[[創価学会]]から破門・絶縁状態になる。同年6月の[[第42回衆議院議員総選挙|衆院選]]では落選し、[[民由合併]]後に行われた[[2003年]]11月の[[第43回衆議院議員総選挙|衆院選]]でも民主党公認で立候補したが落選。政界を引退した。
 
[[2012年]]4月の小沢一郎の[[政治資金収支報告書|政治収支報告書]]虚偽記載問題における[[裁判]]では、[[判決 (日本法)|判決]]当日に小沢の支援者らと共に[[東京地方裁判所|東京地裁]]前に姿を見せた。
 
== 発言 ==
[[官房機密費]]が問題になった時、「[[加藤紘一]][[内閣官房長官|官房長官]](当時)から背広をもらった」と公言し、実際に[[日本共産党]]が公表したリストの中に名前があった。
 
== 外部リンク ==