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'''清の盛 政夫'''(きよのもり まさお、[[1935年]][[4月8日]] - )は、[[1950年代]]から[[1960年代]]にかけて活躍した[[大相撲]][[力士]]、[[年寄]]である自己最高位は東[[前頭]]9枚目。[[秋田県]][[横手市]](現役当時は、[[平鹿郡]][[大森町 (秋田県)|大森町]])生まれ出身。本名'''佐々木 政夫'''(ささき まさお)(のちに[[伊勢ヶ濱部屋]]の先輩である[[桂川質郎|桂川]](本名・檀崎質郎/、最高位は前頭筆頭。引退後、年寄・[[木村瀬平|木瀬]]親方を襲名、檀崎春枝夫の婿養子となり'''檀崎 政夫'''(だんざき -)に改名)。[[大正]]の幕内力士[[日本海忠藏]]は大叔父に当たる。現役時代の体格は183cm、92kg。得意手は右四つ、寄り。
 
== 来歴・人物 ==
16歳の時、同郷の先輩でもある元関脇・[[清瀬川敬之助|清瀬川]]が師匠を務めていた[[伊勢ヶ濱部屋]](その後一時、[[荒磯部屋]]に改称していたが、1961年より伊勢ヶ濱部屋に再改称)へ入門し、[[1953年]]1月場所で[[初土俵]]を踏む。
[[清瀬川敬之助|清瀬川]]の伊勢ヶ濱部屋に入門し、[[1953年]]1月場所で[[初土俵]]を踏む。[[1957年]]5月場所新[[十両]]、[[1959年]]3月場所新[[入幕]]だったが、通算で[[幕内]]と十両を8往復した。[[四股名]]も初土俵から、佐々木→清ノ森→清勢川→清乃盛→清の盛と下の名前も含め度々改名している(幕内では「清ノ森」を名乗っていた時期が長く、「清の盛」の四股名では幕内を勤めていない)。色白で長身の痩せ型、美形であり女性人気があったが、痩せているのは太れない体質のためであった。技能力士であり素早い動きと足技を得意とした。十両優勝した場所([[1961年]]5月場所、十両筆頭)に、[[平幕]]の前頭13枚目[[佐田の山晋松|佐田の山]](のち[[横綱]])と対戦し勝ったことがあるが、この佐田の山が幕内優勝してしまい、「幕内優勝より強い十両優勝」と話題になったことがある。最後の入幕を果たした場所([[1963年]]11月場所)に[[負け越し#15戦全敗を経験した力士|15戦全敗]]を記録している。この15戦全敗は、岳父の桂川が[[1942年]]1月場所に幕内の土俵で記録して以来の出来事であったため話題になった。
 
[[1957年]]5月場所で[[十両]]に昇進し、[[1959年]]3月場所で新[[入幕]]を果たした。しかし、幕内にはなかなか定着できず、通算で[[幕内]]と十両を8往復した。
[[1967年]]5月場所に引退後は岳父から'''[[木瀬部屋]]'''を継承し、[[小結]][[青葉山弘年|青葉山]]、十両[[天剛山隆清|天剛山]]を育てた。真面目で事務能力に長けているため、[[1996年]]からは協会理事も務めた。[[2000年]]4月定年退職。退職前に部屋の所属力士は[[黒瀬川国由|黒瀬川]]の[[桐山部屋]]に移籍した。その後、[[一門 (相撲)#出羽海一門|出羽海一門]]の[[肥後ノ海直哉|肥後ノ海]]が木瀬部屋を再興したが、部屋としての連続性はない。しかし、名跡を譲った肥後ノ海とは交流があり、断髪式にも参加した。
 
[[四股名]]も序二段に付いた時の「佐々木」から、「清ノ森」→「清勢川」→「清乃盛」→「清の盛」と、下の名前も含め度々改名している(幕内では「清ノ森」を名乗っていた時期が長く、「清の盛」の四股名では幕内を務めていない)。色白で長身の痩せ型、美形であり女性人気があったが、痩せているのは太れない体質のためであった。技能力士であり、素早い動きと足技を得意とした。
== 主な成績 ==
 
なお、十両優勝の場所([[1961年]]5月場所、十両筆頭)では、当時[[平幕]](前頭13枚目)の[[佐田の山晋松|佐田の山]](のち、[[横綱]]に昇進)と対戦し勝っている。この佐田の山がこの場所、12勝3敗と大勝ちして幕内最高優勝を遂げたため、「幕内優勝より強い十両優勝」と話題になったことがある。
 
最後の入幕を果たした場所([[1963年]]11月場所)では、[[負け越し#15戦全敗を経験した力士|15戦全敗]]を記録している。この15戦全敗は、岳父の元幕内・桂川が[[1942年]]1月場所に於いて幕内の土俵で記録して以来の珍事であったため、話題になった。
 
[[1967年]]5月場所限りで引退後は岳父から'''[[木瀬部屋]]'''を継承し、[[小結]]・[[青葉山弘年|青葉山]]、十両・[[天剛山隆清|天剛山]]を育てた。
 
真面目で事務能力に長けているため、[[1996年]]からは協会理事も務めた。[[2000年]]4月、日本相撲協会を定年退職。退職前に、部屋の所属力士は元小結・[[黒瀬川国由|黒瀬川]]が師匠を務める同門の[[桐山部屋]]に移籍した。
 
その後、[[一門 (相撲)#出羽海一門|出羽海一門]]の元前頭筆頭・[[肥後ノ海直哉|肥後ノ海]]が木瀬部屋を再興したが、部屋としての連続性はない。しかし、名跡を譲った肥後ノ海とは交流があり、断髪式にも参加した。
 
== 主な成績・記録 ==
* 通算成績:519勝504敗7休1分 勝率.507
* 幕内成績:115勝170敗 勝率.404
* 現役在位:78場所
* 幕内在位:19場所
* 各段優勝
**十両優勝2:2回(1961年5月場所、1965年5月場所)
 
== 場所別成績 ==
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{{Sumo record year start|1953}}
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* [[和晃敏郎]](同一門の後任理事)
* [[大相撲力士一覧]]
 
== 参考文献 ==
*『戦後新入幕力士物語 第2巻』(著者:佐竹義惇、[[ベースボール・マガジン社]]刊、[[1990年]])p299-p304
 
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