「清ノ森政夫」の版間の差分

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[[四股名]]も序二段に付いた時の「佐々木」から、「清ノ森」→「清勢川」→「清乃盛」→「清の盛」と、下の名前も含め度々改名している(幕内では「清ノ森」を名乗っていた時期が長く、「清の盛」の四股名では幕内を務めていない)。色白で長身の痩せ型、美形であり女性人気があったが、痩せているのは太れない体質のためであった。技能力士であり、素早い動きと足技を得意とした。
 
なお、1度目の十両優勝を果たした場所([[1961年]]5月場所、十両筆頭)では、当時[[平幕]](前頭13枚目)の[[佐田の山晋松|佐田の山]](のち、[[横綱]]に昇進)と対戦し勝っている。この佐田の山がこの場所、12勝3敗と大勝ちして幕内最高優勝を遂げたため、「幕内優勝より強い十両優勝」と話題になったことがある。
 
最後の入幕を果たした場所([[1963年]]11月場所)に於いては、[[負け越し#15戦全敗を経験した力士|15戦全敗]]を記録している。この15戦全敗は、岳父の元幕内・桂川(当時の木瀬親方)が[[1942年]]1月場所に於いて幕内の土俵で記録して以来の珍事であったため、話題になった。
 
[[1967年]]5月場所限りで引退後は岳父から'''[[木瀬部屋]]'''を継承し、[[小結]]・[[青葉山弘年|青葉山]]、十両・[[天剛山隆清|天剛山]]を育てた。
 
真面目で事務能力に長けていため、[[1996年]]からは協会理事も務めた。[[2000年]]4月、日本相撲協会を年退職。退職前に、部屋の所属力士は元小結・[[黒瀬川国由|黒瀬川]]が師匠を務める同門(立浪・伊勢ヶ濱連合)の[[桐山部屋]]に移籍した。
 
その後、[[一門 (相撲)#出羽海一門|出羽海一門]]の元前頭筆頭・[[肥後ノ海直哉|肥後ノ海]]が木瀬部屋を再興したが、部屋としての連続性はない。しかし、名跡を譲った肥後ノ海とは交流があり、断髪式にも参加した。