「トゥグリル・ベグ」の版間の差分

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[[キルギス]]草原から[[ブハラ]]方面に進出して勢力を拡大した[[テュルク]]系[[遊牧民]]集団の族長である[[セルジューク]](セルチュク)の孫に当たる人物で、セルジュークの息子のひとりミーカーイールの三男であったらしい。兄にチャグリー・ベクがいる。父であるミーカーイールがムスリム化していないテュルク集団への外征中に戦死した後に、チャグリー・ベクと部衆を分け合ってセルジューク集団を率いていたようである。その智勇に優れていたことから祖父と同じく族長となった。この集団は開祖にちなんでセルジューク族を名乗った。
 
[[1025年]]、[[マーワラーアンナフル]]で勢力を誇り[[サーマーン朝]]の残存勢力に組みして[[カラハン朝]]、[[ガズナ朝]]と戦っていた伯父のアルスラーン・イスラーイールが、ガズナ朝のスルターン・[[マフムード (ガズナ朝)|マフムード]]の捕虜となってガズナへ連行されるという事件が起った。彼の部衆はマフムードによってマーワラーアンナフルから追放されたが、[[1030年]]にマフムードが没してガズナ朝で後継者争いが発生すると、トゥグリルは兄のチャグリーとともに伯父を救出する作戦とマフムードの後を継いだマスウード1世との交渉を何度か行っている。一方で、残余のセルジューク集団を掌握するため、伯父の拘禁の報復を口実として盛んにガズナ朝への出征を行うようになった。
 
1038年、[[ニーシャープール]]の戦いでガズナ朝と戦ってこれに大勝し、それによって同地を支配し、セルジューク朝を創始した。[[1040年]]にもガズナ朝の軍勢と戦ってこれを駆逐して[[アフガニスタン]]まで領土を拡大した。さらに[[ホラーサーン]]地方にも軍を送ってここを支配下に治めている。その後は内政に尽力して国家基盤を築き、[[1055年]]には[[バグダード]]に入城して[[アッバース朝]]第26代[[カリフ]]・[[カーイム]]から[[スルターン]]の称号を与えられたとされている。