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'''ウィーン体制'''(ウィーンたいせい、Vienna system, Vienna Settlement)とは、[[ウィーン会議]](1814-1815年)以後の[[ヨーロッパ]]の国際秩序である。[[1848年革命]]を経て[[クリミア戦争]](1853-1856年)によって完全に崩壊するまで続いた国際的体制であった。
ウィーン会議で[[フランス]]首相[[シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]の主張した[[正統主義]]を基に、[[フランス革命]]と[[ナポレオン戦争]]で荒廃・混乱したヨーロッパを、それ以前の状態を復活させ
しかし、[[産業革命]]による市民生活の発展や大国間の利害関係の複雑化、あるいは1830年前後の[[ギリシア独立戦争]]・[[フランス7月革命]]などの動揺などから次第に枠組みが揺らぎ始め、[[1848年革命]]の波及
==関連項目==
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*[[カルリスタ戦争]]
*[[1848年革命]]
*[[ボナパルティズム]]
*[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題]]
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