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社員には集散があり、尾竹紅吉(一枝。19歳)が1912年(明治45年)1月に、[[神近市子]](24歳)が7月に、[[伊藤野枝]](17歳)が10月に入社した。紅吉は、五色の酒を飲んだこと、叔父の日本画家・尾竹竹坡に連れられ吉原に登楼したこと、相愛の平塚に男友達ができたことなどを誌上で奔放に書き綴ったことで、市中の記者に批判のやり玉に上げられ、退社に追い込まれると、ノラのような「目覚めた女性」を指していた「新しい女」の語が、「ふしだらな女性」の意に変わって、『青鞜』に向けられるようになった。
 
1912年(明治45年)4月の第2巻4号は、[[姦通]]を扱った荒木郁の小説『手紙』のゆえに[[発禁]]となり、青鞜社は物集邸から追い出された。1912年(明治45年)5月ごろから翌年にかけて、多くの新聞・雑誌が、からかいを込めた「新しい女」特集を載せ、順調だった『青鞜』に影が差した。[[津田塾大学|女子英塾]]の[[津田梅子]]は塾生が青鞜に関わることを禁じ、[[日本女子大学]]の[[成瀬仁蔵]]も『新しい女』を批判した。
 
青鞜側も、[[1913年]](大正2年)の1月号と2月号の附録『新しい女、其他婦人問題に就て』で反撃し、[[岩野泡鳴]]、[[阿部次郎]]、[[馬場孤蝶]]、[[杉村楚人冠]]らは青鞜の味方だった。その2月号は、附録中の福田英の所論が社会主義的であるとして、発禁にされた。