「オットー4世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
解消済み仮リンクの除去 |
|||
83行目:
1215年の[[第4ラテラン公会議]]の開催前、ミラノから派遣されたオットーの使者は破門の解除を嘆願した<ref name="Abulafia, pg. 127">Abulafia, 127頁</ref>。使者はオットーが罪を悔悟していることを弁明し、教皇に一切の服従を誓うことを約束したが、インノケンティウス3世はフリードリヒ2世を新たなドイツ王にすることを決めていた<ref name="Abulafia, pg. 127"/>。1215年、オットーは神聖ローマ帝位を断念する<ref name="Canduci, pg. 294"/>。
ブーヴィーヌで敗れたオットーは本拠地であるブラウンシュヴァイクへの撤退を余儀なくされ<ref>Comyn, 283頁</ref>、フリードリヒ2世はアーヘンとケルンを獲得した<ref name="Canduci, pg. 294"/>。以降、オットーは没するまでブラウンシュヴァイクから出ることはほとんど無かった<ref>西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、257頁</ref>。1218年5月19日に{{仮リンク|ハルツ城|de|Harzburg}}でオットーは
== 人物像 ==
|