「イリヤース・ホージャ」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[1361年]]にトゥグルク・ティムールが[[マー・ワンスオクシー・フル]]を支配する西チャガタイ・ハン国を征服すると、イリヤース・ホージャはマー・ワンスオクシー・フルの支配を任された。[[バルラス|バルラス部]]の指導者[[ティムール]]がイリヤース・ホージャの後見人に付けられたが、ティムールはイリヤース・ホージャの元を離れて反乱を起こした。
 
[[1363年]]に[[シャフリサブス|キシュ]]近郊の戦いでティムールの軍に大敗を喫し、翌[[1364年]]春にイリヤース・ホージャはマー・ワンスオクシー・フルに親征した。
 
[[1365年]]に[[チナズ]]・[[タシュケント]]の間で起きた[[泥濘の戦い]]で、イリヤース・ホージャはティムールとフサインの連合軍に勝利した。勝利後にモグーリスタン軍はサマルカンドに向かうと、サマルカンド城内で反モンゴルを掲げる「[[サルバダール運動]]」を行う集団が住民に抵抗を呼びかけた。当時のサマルカンドには防壁と内城は無く、守備兵も退却しており、イリヤース・ホージャたちは容易にサマルカンドを攻略できると考えていた<ref>加藤『中央アジア歴史群像』、95,97頁</ref>。しかし、抵抗を受けずにサマルカンド奥深くに入ったモグーリスタン軍は、サルバダールに率いられた住民からの奇襲で損害を受けて城内から脱出した。さらに疫病によって軍馬の多くを失い、イリヤース・ホージャは戦果を得ることなく中央アジアから退却しなければならなかった<ref>加藤『中央アジア歴史群像』、97頁</ref>。