「中院通頼」の版間の差分

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以下、『[[公卿補任]]』の記事に従って記述する。
 
[[正嘉]]元年([[1257年]])1月6日、[[従三位]]に叙される。左中将は元の如し。正嘉2年([[1258年]])5月14日、正三位に昇叙。[[文応]]元年([[1260年]])3月29日、[[参議]]に任ぜられ左中将兼任。また、信濃権守を兼ねる。[[弘長]]元年([[1261年]])3月27日、[[中納言|権中納言]]に任ぜられ、同年4月14日、[[帯剣]]を許される。同年11月4日、[[左衛門督]]を兼ねる。弘長2年([[1262年]])1月5日、従二位に昇叙。同年閏7月23日、[[検非違使別当]]を兼ねる。弘長3年([[1263年]])2月19日、正二位に昇叙。同年8月13日、検非違使別当を辞したか。以後、正二位行権中納言権左衛門督として数年を過ごし、[[文永]]5年([[1268年]])12月2日、中納言に転じ左衛門督は元の如し。<br />
文永6年([[1269年]])3月27日、[[大納言|権大納言]]に任ぜられる。以後、正二位行権大納言のまま。弘安9年([[1286年]])12月23日、父である前内大臣[[中院通成]]が薨去。同日、喪に服す。[[弘安]]10年([[1287年]])1月13日、息男である通重を参議に任じる代わりに権大納言を止められる。[[正応]]元年([[1288年]])4月7日、[[本座]]を許される。<br />
[[永仁]]5年([[1297年]])10月1日、従一位に叙せられ、同年12月16日には[[准大臣|大臣に準じて]]朝参するよう宣下がある。永仁6年([[1298年]])7月15日、[[奨学院]]別当となる。以後、大臣に昇進することなく[[正和]]元年([[1312年]])8月8日、[[薨去]]。
 
== 参考文献 ==