「フリードリヒ・ラッツェル」の版間の差分
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卒業後、南[[フランス]]へと旅行したが、金銭不足に陥り、それを補うために[[ケルン]]新聞(あるいは年報)宛てに「[[地中海]]の旅行手記」を投稿した。ラッツェルの報告記は当新聞の読者から好意的に受け入れられ、彼は当新聞の調査報告者として雇われ継続的に旅行報告をしていく事になった。彼はさらに[[イタリア]]、[[キューバ]]、[[メキシコ]]、[[ハンガリー]]、[[アメリカ合衆国]]へと調査旅行を行った。
1871年、ラッツエルは[[ミュンヘン工科大学]]へ行き、彼の自然科学研究を継続する。ここで彼にとって地理学が、ますます大きな意義を持つようになっていた。1875年にラッツエルの調査旅行は終わり、ミュンヘン工科大学の地理学の私講師としての時代が始まる。その一年後には員外教授へ。彼のミュンヘンでの活動中に「
1877年に[[イギリス]]旅行で知り合ったマリー・ウィンガーズと結婚。二人の娘に恵まれる。
1886年にラッツェルは、ライプチヒ大学へ招聘。フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンの転出を受けて地理学を受け持つ。没するまで18年近く当大学での活動となる。この間、歴史学者のヴィルヘルム・ハインリヒ・ロッシャーや、物理学者ヴィルヘルム・オストヴァルト、心理学・哲学者のヴィルヘルム・ヴントらを知り、影響を受ける。彼は、蔵書の拡大とゼミの活動の拡張に尽力した。学生からの人気により、彼の地理学の講義の聴講者の数はすごい勢いで増加した。
Noch während der Ausübung seiner wissenschaftlichen Arbeit und Lehrtätigkeit, verstarb Friedrich Ratzel am [[9. August]] [[1904]], kurz vor seinem 60. Geburtstag während seines Sommerurlaubes am [[Starnberger See]].
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