「ゲリラ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Juckri (会話 | 投稿記録)
m 誤記訂正
Claw of Slime (会話 | 投稿記録)
Juckri (会話) による ID:54908031 の版を取り消し
35行目:
[[イギリス軍]]の[[トーマス・エドワード・ロレンス]]は、[[第一次世界大戦]]において[[アラブ反乱]]を率いて[[オスマン帝国]]と戦った。彼の取った[[作戦]]は、オスマン帝国との正面からの衝突ではなく、[[ヒジャーズ鉄道]]を神出鬼没に攻撃してより多くの[[オスマン帝国軍|オスマン軍]]部隊を[[鉄道]]沿線に張り付け、[[イギリス軍]]の[[パレスチナ]]での進軍をしやすくすることにあった。彼の取った戦法は、各国のゲリラ戦術や[[特殊部隊]]に影響を与えた。
 
代ゲリラ戦を定型化したのは、[[ニカラグア]]の[[アウグスト・セサル・サンディーノ]][[将軍]]だった。サンディーノは、[[1927年]]に駐ニカラグア[[アメリカ海兵隊]]を攻撃してニカラグア北部の[[森林|密林]]や[[山地|山岳地帯]]でのゲリラ戦争に持ち込み、国際社会や[[ラテンアメリカ]]諸国の支援を受けて[[1933年]]に海兵隊を撤退に追いやった。
 
今日現代においてゲリラ戦の有効性を実証したのは、[[国共内戦#経緯|第一次国共内戦]]において、[[毛沢東]]が率いた[[中国共産党]]の[[紅軍]]であった。[[延安市|延安]]に[[長征]]した後の彼は『[[遊撃戦論]]』などの著作の中で、それまでの[[マルクス主義]]における革命戦術の唯一の公式となっていた都市プロレタリア蜂起戦術を批判し、山岳を根拠地とする[[村落|農村]]ゲリラ戦術を理論化し、国共内戦と[[日中戦争]]で実践した。背景には[[中国の歴史|中国史]]に数ある[[農家|農民]]反乱の伝統があったが、毛沢東は単純に農民の数をあてにするのではなく、険阻な山岳に[[士気]]の高いゲリラ軍が入って長期抗戦の態勢を整え、それを一般の農民が支援するというスタイルを編み出す。<!--認められないとすると、下記の記述と矛盾する。(これは農民などの民間人と同じ平服で紛れ込む、民間人の保護を旨とする当時の[[国際法]]に反する戦術であり、[[捕虜]]資格が認められない作戦だった。)-->
 
[[第二次世界大戦]]では、[[中華民国]]、[[ポーランド]]、[[ユーゴスラビア]]、[[ギリシャ]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]、[[フランス]]、[[スロバキア]]、[[フィリピン]]、[[ベトナム]]、[[イタリア]]([[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]の失脚後)など、[[枢軸国]]の侵攻を受けた諸国で占領軍に対するゲリラ戦が展開され、[[ヨーロッパ]]のゲリラは、特に[[レジスタンス運動]]や[[パルチザン]]と呼ばれた。これらのゲリラの主任務は、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の正規軍と連携し、戦線の後方で[[破壊活動]]や[[諜報活動]]をすることであった。ただし、中国とユーゴスラビアのゲリラは山岳地から勢力を拡大して[[都市]]の争奪にまで乗り出した。大戦末期に[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]が[[東ヨーロッパ|東欧]]や[[バルト三国]]を占領すると、枢軸軍と戦っていたゲリラは国民の解放を求めてソ連軍相手にゲリラ戦を続け、[[ウクライナ]]や[[リトアニア]]、[[エストニア]]、[[ラトビア]]では[[ウクライナ蜂起軍]]や[[森の兄弟]]による抵抗運動が戦後も暫く続いた。