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[[呉 (三国)|呉]]征伐には終始消極的で、羊祜亡き後も[[杜預]]や[[張華]]といった主戦派を批判し続けた。
 
[[咸寧 (晋)|咸寧]]6年([[280年]])の[[呉の滅亡 (三国)|呉征服戦]]においても、終始開戦に反対し続け、司馬炎に窘められた。総指揮官を任されてもそれは変わらず、杜預達が快進撃を続ける中においても、幾度となく撤退を主張する有り様であった。しかし結果的に呉征服が大成功を収めたため、天下は統一された。賈充は開戦に反対し続けていたとはいえ、地位が揺らぐ事はなく、荀勗や馮紞([[李孚]]の孫)らと結託し、娘の賈南風を太子[[恵帝 (西晋)|司馬衷]]の后とする事に成功し、任愷や張華などの政敵を次々に排除していった。て寧ろ杜預などかつての対呉主戦派の者たちが中央に[[賄賂]]を送るなど保身に汲々とする有様だったという。
 
魯公に封ぜられたが、[[太康 (晋)|太康]]3年(282年)に死去した。諡号選定に当たり生前の行状から「'''荒'''」が上梓されたが、武帝の抗議で撤回され「武」となった経緯がある。「荒」とは諡号選定の法にて'''悦しみを恣にし国家の綱紀を紊乱した者'''に与えられる悪諡である。
 
生涯を通じて司馬炎に対して忠実な臣下であったが、司馬炎の同母弟で自身の娘婿でもある[[司馬攸]](斉王)の庇護者でもあった。呉征伐に反対したのは、異民族に対する憂慮や当時司馬攸が服喪期間中であったため司馬攸の政治的地位の低下を慮っていたからとの説もある。司馬炎が司馬攸を死に追いやる斉王帰藩問題が勃発するのは、賈充が死去して間もなくである。