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[[曹髦]](高貴郷公)が司馬氏から実権を奪い返すために兵を挙げた際は、この事変の収拾を意図した司馬昭の指示を受け、乱の鎮圧に赴いた。このとき、賈充は部下の[[成済]]に命じて曹髦を殺害させた。[[陳泰]]が、賈充を皇帝殺害の罪で極刑にすべきと司馬昭に訴えたというが、結局は実行犯の成済が罪を被せられ処刑されただけで、賈充は何の罪にも問われなかった。[[景元]]5年([[264年]])、[[蜀漢の滅亡|蜀漢征伐]]の後に[[鍾会]]が反旗独立を謀ると、賈充は司馬昭の命令で軍を率いて[[関中]]に赴いたが、途中で鍾会の死が伝わってきたため沙汰止みとなった。
 
===西晋建国の功臣に===
司馬昭の死後、その子の[[司馬炎]]に仕え、その禅譲に協力した。司馬炎(武帝)が即位すると、[[羊コ|羊祜]]・[[荀勗]]・[[裴秀]]・[[王沈]]らと共に佐命の勲(晋朝成立の功臣)として功賞され、賈充の功績も筆頭に挙げられた。[[陳騫]]と共に特別な香を付与された事もあったという。晋の時代になると[[司空]]・[[尚書令]]等を歴任し、[[泰始律令]]の制定にも当たった。[[泰始 (晋)|泰始]]6年([[270年]])、[[雍州]]・[[涼州]]で異民族の大規模な反乱が起き[[石鑒_(西晋)|石鑒]]が鎮圧に失敗すると、[[任ガイ|任愷]]は司馬炎に対し賈充を鎮圧に赴かせるよう進言した。しかし任愷はかねてから賈充を快く思っておらず、賈充もまた任愷を非難していたので、この進言は賈充を外地に出させるための讒言であったと考えられる。賈充は[[荀勗]]と画策したため洛陽に留まることができたという。また両者の確執は、賈充派と任愷派の[[派閥]]抗争にも発展した。しかし賈充は、任愷を帝との接触が少ない[[尚書]]に転任させ、司馬炎から遠ざけることで両者の離間を謀った。これにより任愷を失脚させることに成功したという。
 
[[呉 (三国)|呉]]征伐には終始消極的で、羊祜亡き後も[[杜預]]や[[張華]]といった主戦派を批判し続けた。
 
[[咸寧 (晋)|咸寧]]6年([[280年]])の[[呉の滅亡 (三国)|呉征服戦]]においても、終始開戦に反対し続け、司馬炎に窘められた。総指揮官を任されてもそれは変わらず、杜預達が快進撃を続ける中においても、幾度となく撤退を主張する有り様であった。しかし結果的に呉征服が大成功を収めたため、天下は統一された。賈充は開戦に反対し続けていたとはいえ、地位が揺らぐ事はなく、荀勗や馮紞([[李孚]]の孫)らと結託し、娘の賈南風を太子[[恵帝 (西晋)|司馬衷]]の后とする事に成功し、任愷や張華などの政敵を次々に排除していった。て寧ろ杜預などかつての対呉主戦派の者たちが中央に[[賄賂]]を送るなど保身に汲々とする有様だったという。
 
魯公に封ぜられたが、[[太康 (晋)|太康]]3年(282年)に死去した。諡号選定に当たり生前の行状「功績」から「'''荒'''」が上梓検討されたが、武帝遺族の抗議で撤回され「武」となった経緯がある。「荒」とは諡号選定の法にて'''悦しみを恣にし国家の綱紀を紊乱した者'''に与えられる悪諡である。
 
生涯を通じて司馬炎に対して忠実な臣下であったが、司馬炎の同母弟で自身の娘婿でもある[[司馬攸]](斉王)の庇護者でもあった。呉征伐に反対したのは、異民族に対する憂慮や当時司馬攸が服喪期間中であったため司馬攸の政治的地位の低下を慮っていたからとの説もある。司馬炎が司馬攸を死に追いやる斉王帰藩問題が勃発するのは、賈充が死去して間もなくである。