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[[新羅|統一新羅]]時代には良州に属し、屈自郡(のち義安郡)が置かれた。現在の馬山は骨浦県(のち合浦県)と呼ばれて義安郡の属県であったが、高麗時代に義安郡・合浦県は同格の郡県として金州に属した。
 
[[李氏朝鮮|朝鮮王朝]]時代の1408年義昌郡(義安郡から改称)と会原県(合浦県から改称)が統合されて'''昌原府'''となることで、昌原の地方官名と地名がうま命名された。朝鮮王朝時代を通じて、この行政区は南海に面した要衝として、昌原都護府を経て'''昌原大都護府'''に昇格していった。
 
=== 近代 ===
[[1895年]][[甲午改革]]にともなう地方制度改革によって昌原大都護府の領域は分割・再編され、中央部に'''昌原郡'''、西部に'''鎮海郡'''、東部に'''熊川郡'''が設置された。[[1899年]]、昌原郡内で馬山港の開港が行われると、馬山が郡の新たな中心として発展するようになった。昌原郡の郡庁も馬山の日本人居留区である新馬山に移され、旧昌原邑城は洞事務所<村役場>所在地に転落した。
 
1908年には、鎮海郡・熊川郡がふたたび昌原郡に併合編入される。その後、馬山の居留地の地位と大韓帝国自体の地位の変遷にともなう複雑な制度改編のすえを経て、[[1914年]]に開港地付近が'''馬山府'''、農村部が'''昌原郡'''として分離した。海岸部のほぼ中央にあった馬山府によって郡域が東西に分断されたこともあり、昌原郡庁はそのまま馬山府内に位置した。
 
植民地期には郡東南部の鎮海湾沿岸に[[鎮海港|鎮海軍港]]と軍港都市・鎮海が建設された。
 
=== 大韓民国成立後 ===
大韓民国成立後、1955年に鎮海邑が'''[[鎮海区 (昌原市)|鎮海市]]'''として分離。1970年代、昌原面・上南面・熊南面は[[馬山市]]に併合編入されたのち昌原新都市として開発が行われ、1980年に'''[[昌原市]]'''となった。このため、西部・北部・東南部に分散して残った郡部は'''義昌郡'''に改名した。東南部の熊東洞が鎮海市に、天加洞(加徳島)が釜山広域市江西区にそれぞれ編入された後、1991年に再び'''昌原郡'''に改名。1995年1月1日、西部の5面が馬山市に、北部の3面が昌原市に統合され、昌原郡は消滅した。
 
=== 年表 ===
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* 1910年10月1日 - 昌原府が'''馬山府'''に改称。
* 1910年12月27日 - 鎮海が軍港に指定される。
* 1912年1月 - 熊中面・熊西面が合併し、鎮海面が発足を設置
* 1914年8月1日 - 郡面併合により、馬山府の開港地周辺の各国居留地および外西面が新たな[[馬山市|馬山府]]として分離。馬山府の残りの部分が'''昌原郡'''に改編。昌原郡に以下の面が成立(15面)。
** 鎮田面・鎮北面・鎮東面・亀山面・内西面・大山面・東面・北面・府内面・上南面・熊南面・鎮海面・熊邑面・熊東面・天加面