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Yasumi (会話 | 投稿記録)
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==生涯==
無錫(現在の[[江蘇省]][[無錫市]][[錫山区]]張泾鎮)の出身。家は貧しかったが学問を好み、日夜読書に励んだため、[[隆慶 (明)
|隆慶]]4年([[1570年]])に補邑庠生員となり[[朱子学]]を修める。万暦4年([[1576年]])に郷試の首席となり、万暦8年([[1580年]])に[[進士]]、戸部主事に任命された。万暦10年([[1582年]])に吏部稽勛司主事・考功司を歴任、執政に不満を持ち弾劾したことで桂陽州([[湖南省]])判官に左遷され、その後再び中央に挙げられ、官位は吏部文選郎中まで達する。万暦22年([[1594年]])に皇帝の長子をすぐに立太子するよう痛烈な意見書を発表し、それが斥けられたことを理由として同志とともに辞職して故郷に帰る。万暦26年([[1598年]])から惠山第二泉で講学に励み、万暦32年([[1604年]])に宋代の儒学者・[[楊時]]の跡を継ぐために、弟の允成・高攀竜とともに[[東林書院]]を再興し、北京の[[首善書院]]と並び称されるようになる。万暦36年([[1608年]])に南京光禄少卿に推挙されたが辞して、死ぬまで講学に力を尽くした。
 
==学風==