「広島藩」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
32行目:
慶応2年([[1866年]])に第14代将軍・[[徳川家茂]]が死去し、第2次長征が事実上幕府軍の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応3年([[1867年]])には長州藩・[[薩摩藩]]と同盟を結ぶに至った。しかしその一方で、第15代将軍・[[徳川慶喜]]に[[大政奉還]]を推進するなどしている。このため、広島藩は後の明治政府の中枢から排除されることにはなったが、官軍に加わって[[戊辰戦争]]を戦った。
 
明治2年([[1869年]])6月、第12代藩主・長勲(重晟の曾孫)は[[版籍奉還]]により広島藩知事に任じられる。[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により広島県となった。明治17年([[1884年]])、藩主・浅野家は[[侯爵]]となり[[華族]]に列し、家老三家は[[男爵]]となった。なお長勲は[[昭和]]12年([[1937年]])に96歳で死去するまで長寿を保ち、当時のメディアからは「最後の殿様」ともてはやされたという。
 
なお、支藩として[[#三次藩|三次藩]]、[[#広島新田藩|広島新田藩]]があった。また赤穂藩(元の[[常陸]][[真壁藩]]、同[[笠間藩]])も支藩とみなす説もある。