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[[1940年]]にアメリカから声が掛かり、「カーネーション・コンテンティッド・アワー」の指揮者の急死による代役を3週間務めた所大好評となり、契約延長でそのまま番組共々アメリカに留まることになった。その約2年後にはアメリカの[[市民権]]を得る。
 
録音活動は[[1944年]]から開始し、その後アメリカ・[[デッカ]]の[[A&R]]として活動するが、[[1950年]]に当時アメリカ・[[コロムビアレコード]](現[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]])の[[ミッチ・ミラー]]によってそこへ移籍し、同社の東部のミュージカル・[[ディレクター]]として活動を始める。その中では、自身のムード・ミュージック・オーケストラとしての活動も行い、[[1975年]]までにその録音活動は続き、その間、「[[デリカード]]」「[[ムーラン・ルージュの歌]]」「[[夏の日の恋(映画音楽)|夏の日の恋]]」の[[全米ヒットチャート]]1位を3曲も送り出した。特に「夏の日の恋」は、当時水と油の関係と言われた[[マントヴァーニ]]の様なムード・ミュージックのサウンドと当時流行っていた[[ロックンロール]]のサウンドを上手く見事に融合させたのが功を奏し、[[1960年]]に9週連続全米ヒットチャートの1位を記録、同年の[[グラミー賞]]を受賞した。又、ミュージカル・ディレクターとして、[[トニー・ベネット]]、[[ドリス・デイ]]、[[ローズマリー・クルーニー]]、[[ジョニー・マティス]]等の編曲、バック・オーケストラの指揮の仕事も行った。
 
[[1960年]]が初めての来日で、その時は単身で日本のオーケストラを指揮したという。自らのオーケストラを率いての来日公演は[[1966年]]、[[1971年]]、[[1973年]]、[[1974年]]、[[1975年]]の計5回あり、この内、[[1966年]]の来日公演は、同年6月に[[日本放送協会|NHK]]にて総合テレビ(カラー放送)とFM放送(ステレオ)にて放送され(映像資料は残っていないが、音声資料に於いては残存が不明)、更に[[1974年]]の公演の模様はライブ録音され、アナログ[[レコード#レコードの諸形態|LP]]にて[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBSソニー]]から発売された。