「八十年戦争」の版間の差分

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Æskja (会話 | 投稿記録)
2012年5月20日07:34UTCに124.27.146.238さんが『オランダ独立史』を参考文献に挙げたが利用者‐会話:124.27.146.238を見るに参考文献ではないようなので読書案内に。他
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{{出典の明記|date=2015年1月}}
'''八十年戦争'''(はちじゅうねんせんそう、[[オランダ語{{lang-nl-short|蘭]]:TachtigjarigeTachtigjarige Oorlog)Oorlog}})は、[[1568年]]から[[1648年]]にかけて([[1609年]]から[[1621年]]までの12年間の休戦を挟む)[[ネーデルラント]]諸州が[[スペイン]]に対して反乱を起こした戦争。これをきっかけに後の[[オランダ]]が誕生したため、'''オランダ独立戦争'''と呼ばれることもある<ref group="注釈">スペイン・ポルトガルを知る事典([[平凡社]])や世界史B用語集([[山川出版社]])等で、'''オランダ独立戦争'''の名称も並称されている。</ref>。この反乱の結果として、[[ネーデルラント17州]]の北部7州は[[ネーデルラント連邦共和国]]として独立することになった。北部7州は、[[1581年]]にスペイン国王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]の統治権を否認し、[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]]によって独立を承認された。
 
== 前史 ==
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15世紀にネーデルラント(現在の[[ベネルクス]])は[[ブルゴーニュ公国]]の一部となる([[ブルゴーニュ領ネーデルラント]])。この頃のネーデルラントは毛織物生産により経済的先進地となり、[[ヘント]](ガン)、[[アントウェルペン]]などの富裕な都市を生みだしている。しかし[[1477年]]にブルゴーニュの[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル豪胆公]]が戦死すると、一人娘の[[マリー・ド・ブルゴーニュ|マリー女公]]は後の[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]と結婚し、ネーデルラント地域は[[ハプスブルク家]]の所領となった。
 
[[画像ファイル:Tizian 066.jpg|200px|thumb|神聖ローマ皇帝カール5世]]
神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]は、[[ネーデルラント17州]]すべての主権者として専制政治を行い、カール5世退位後ハプスブルク領がオーストリア系とスペイン系に分かれると、ネーデルラントは[[スペイン]]の支配下に入った。
 
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=== プロテスタントの反乱 ===
[[画像ファイル:Antonio Moro - Willem I van Nassau.jpg|200px|thumb||オラニエ公ウィレム1世]]
ネーデルラントではプロテスタントの[[改革長老教会|カルヴァン派]]などが広まっていたが、カトリックのスペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]は厳しい[[異端審問]]を実施してプロテスタントを弾圧した。このためネーデルラント諸州は[[1568年]]、有力貴族[[オランジュ|オラニエ]]公[[ウィレム1世 (オラニエ公)|ウィレム1世]](1533年 - 1584年)を先頭に、スペインに対する反乱を起こした。
 
{{仮リンク|ライデン包囲戦|en|Siege of Leiden}}([[1573年]] - [[1574年]])。
 
[[画像ファイル:2984.b.jpg|200px|thumb|パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ]]
[[1576年]][[11月4日]]に{{仮リンク|アントワープ陥落|en|Sack of Antwerp|label=アントワープが陥落}}すると、[[11月8日]]に{{仮リンク|ヘントの和約|en|Pacification of Ghent}}が締結されてカトリックとプロテスタントの融和が図られたが、[[1579年]]には北部7州で[[ユトレヒト同盟]]が結ばれ、スペインとの対決姿勢を見せた。南部の州はカトリック派のパルマ公[[アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]に制圧されていき、[[1585年]]にアントウェルペンが陥落した。[[南ネーデルラント]]はカトリックの勢力が強く、スペインの支配下に留まることになった(おおよそ現在の[[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]])。一方、オラニエ公ウィレムもスペインによって暗殺されるが(1584年)、[[1581年]]、プロテスタント側はフェリペ2世の統治権を否認する布告を出した。
 
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[[1648年]]、三十年戦争を終結させた[[ヴェストファーレン条約]]で、ブレダは正式に[[ネーデルラント連邦共和国]]に加わった。ヴェストファーレン条約の一部である{{仮リンク|ミュンスター条約 (ヴェストファーレン条約)|en|Peace of Münster|label=ミュンスター条約}}でスペインはネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認し、ようやく80年にわたる戦争が終結した。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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=== 注釈 ===
<div class="references-small"><references group="注釈"/></div>
=== 出典 ===
<div class="references-small">{{Reflist}}</div>
 
== 参考文献 ==
<!--編集にあたって実際に参考にした書籍のみを記載してください-->
*オランダ独立史. [[フリードリッヒ・シラー]] [[丸山武夫]]訳.1949.岩波文庫 
<!--{{Cite book}}などの出典テンプレートの使用をご検討ください-->
 
== 読書案内 ==
* [[フリードリヒ・フォン・シラー|フリードリッヒ・シラー]]『オランダ独立史』[[丸山武夫]]訳、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1949年。上巻:{{全国書誌番号|49008525}}、下巻:{{全国書誌番号|49011434}}。
** 1996年10月に岩波文庫にて復刊。上巻:ISBN 978-4-00-329401-7、下巻:ISBN 978-4-00-329402-4。
== 関連項目 ==
=== 人物 ===
* [[ウィレム1世 (オラニエ公)]]
* [[マウリッツ (オラニエ公)]]
* [[フレデリック・ヘンドリック (オラニエ公)]]
* [[アンブロジオ・スピノラ]]
* [[ディエゴ・ベラスケス]]
* [[ガスパール・デ・グスマン]]
 
=== その他 ===
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* [[印紙税]]
 
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[[Category:ネーデルラント連邦共和国]]
[[Category:オランダの歴史]]
85 ⟶ 96行目:
[[Category:三十年戦争]]
[[Category:ネーデルラント]]
 
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