「ハインリッヒ・エドムント・ナウマン」の版間の差分

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ナウマンは[[貝塚]]を2、3発見し、[[ハインリッヒ・シーボルト]]の貝塚研究を助けた。
 
1884年12月にナウマンの雇用は終了したが半年延長され、1885年(明治18年)6月、天皇に謁見して勲4等を叙勲し、7月に離日した<ref name=suzuki>[https://www.gsj.jp/data/gcn/gsj_cn_vol4.no2_52-57.pdf 日本地質学の軌跡3 原田豊吉:帝国大学理科大学と農商務省地質局の星]鈴木理、GSJ 地質ニュース Vol. 4 No. 2(2015 年 2 月)</ref>。
ドイツに帰ってから、ナウマンは[[1886年]]に[[ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学|ミュンスター大学]]で[[私講師]]となり、[[地質学]]や[[地理学]]を講じた。後年、ドイツ東亜博物学[[民俗学]]協会で日本の貝塚について講演している。
 
ドイツに帰ってから、ナウマンは[[1886年]]に[[ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学|ミュンスター大学]]で[[私講師]](正雇いではなく講義ごとに学生から受講料を取る教師)となり、[[地質学]]や[[地理学]]を講じた。後年、ドイツ東亜博物学[[民俗学]]協会で日本の貝塚について講演している。ベルリンでの地質学会議に参加して論文『日本列島の構造と起源について(Über den Bau und die Entstehung japanischen Inseln)』を発表し、さらに同名の著書を出版してフォッサ・マグナ説を提案した<ref name=suzuki/>
その時{{いつ|date=2014年8月}}在独中の[[森林太郎]](鴎外)がその誤りを正したという逸話もある。<!-- Allgemeine Zeitung紙上論争の話と思われますが、「その誤り」では「言葉を濁さない」に反する表現です。ぜひ、訂正を。 -->
 
1886年3月に[[ドレスデン]]東亜博物学・民俗学協会で講演した際には、日本人の無知、無能ぶりを嘲笑したため、[[森林太郎]]がそれに反駁して論戦し、新聞にも反論を投稿した<ref name=suzuki/>。
 
1923年に[[関東大震災]]で東大図書館が焼け落ちたときには、自分の蔵書を寄贈した。