「栃錦清隆」の版間の差分

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引退後は先代から引き継いだ[[栃ノ海晃嘉]]を横綱へ、[[栃光正之]]を大関まで育て、それ以外にも数多くの関取を育てた。
 
年寄・春日野としては「力士とは力の紳士と書く、ただの相撲取りであってはいけない」との思想を基にした厳しい指導を行なった。他に審判部長・事業部長などを歴任し、審判部長としては[[1969年]]3月場所2日目、[[羽黒岩智一|戸田智次郎]] - [[大鵬幸喜]]戦<ref>[[木村庄之助_(26代)|式守伊之助]]と共に大鵬の勝ちと主張したが、春日野以外の審判は戸田の勝ちを支持し、行司差し違えで「戸田の勝利・大鵬46連勝ならず」となるが、これは誤審であることが判明した。相撲判定にビデオ判定を導入する用意は行なわれていたが、この相撲が前倒し導入のきっかけとなった。</ref>、[[1972年]]1月場所8日目の[[貴ノ花利彰|貴ノ花満]] - [[北の富士勝昭]]戦<ref>北の富士の[[つき手]]か[[かばい手]]かを巡って大物言いとなる。[[木村庄之助_(25代)|木村庄之助]]は「付き手」として貴ノ花に軍配を上げたが、春日野は「かばい手」=貴ノ花は[[死に体]]と主張し、行司差し違えで北の富士の勝ちとなり、木村庄之助引退の原因となった。</ref>といった、判定を巡る歴史的な大事件に関わった。
 
[[1974年]]には[[出羽ノ花國市|武蔵川]]から日本相撲協会理事長職を継ぐ。{{要出典範囲|この時、武蔵川の娘婿である[[佐田の山晋松|出羽海]]が理事長になるまでの繋ぎの短期政権と見られていた。|date=2013年5月}}しかし理事長となってからは、