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=== 真珠湾攻撃 ===
[[1941年]](昭和16年)、[[第五航空戦隊]]は[[南雲忠一]]中将指揮下の[[第一航空艦隊|第一航空艦隊(南雲機動部隊)]]に属し、[[真珠湾攻撃]]に参加した。
[[艦上攻撃機]]隊48機が[[宇佐海軍航空隊#沿革|宇佐基地]]、[[艦上爆撃機]]隊54機が[[大分空港#旧大分空港|大分基地]]、[[艦上戦闘機]]隊36機は[[佐世保海軍航空隊#戦後の佐世保飛行場|佐世保基地]]を基地として<ref>面白いほどよくわかる太平洋戦争 [[日本文芸社]] p.37</ref>、離訓練や[[錦江湾]]、[[志布志湾]]、[[佐伯湾]]での訓練を行った。
 
11月16日、「瑞鶴」は[[呉基地]]で燃料・弾薬・食料などを搭載、艦載機も全機収容した<ref>[[#零戦撃墜王]]55頁</ref>。出港前に副長から凡その目的地と寄港地を説明されるのが通例であったが、今回はそれが無いまま出港し、途中で自艦の搭載機部隊を各陸上基地から離陸させて着艦収容すると[[佐伯湾]]に錨泊した<ref>勇者の海、164、168-170ページ</ref>。佐伯湾には[[ハワイ作戦]]に参加するほとんどの24隻の艦船が集まっており、翌17日午後に[[山本五十六]][[連合艦隊司令長官]]の視察を受けた。各艦船は機動部隊としての行動をごまかすため、11月18日に時間をずらしてバラバラに佐伯湾を離れ、第五航空戦隊は[[豊後水道]]を他艦とは逆に北上して[[別府湾]]で停止した。<!--同日から「瑞鶴」勤務の宮尾(海軍軍医)が乗組員から聞いた話では、「瑞鶴」性能諸元は全長270m・幅37m・2万9700トン・速力35ノット・搭載機80機、速力と搭載機のため装甲を犠牲にしており魚雷1本命中で「誠ニ心モトナイ」「運ノ悪イ船ニ乗組ンダモノデアルソウナ」であったが、食事は噂に反して美味、医務室の設備も充実していたという<ref>[[#海軍軍医日記抄]]17頁</ref>。(瑣末過ぎる話のように思う)-->日付が19日になった午前0時に再び動き出して豊後水道を戻り、本州東海の太平洋を北上していった。