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'''孝粛皇后'''(しゅうこうごう、? - [[1504年]])周氏は、[[明]]の第6代・第8代[[皇帝]]である[[英宗 (明)|英宗]]の貴妃で、第9代皇帝[[成化帝]]の生母。息子の即位後に[[皇太后]]とされた。[[諡]]は'''孝粛皇后'''(こうしゅくこうごう)。父は周能。母は甄氏
 
== 生涯 ==
昌平の農家の出身であり、周能と甄氏の次女として生まれた。初めで後宮の侍女を務めた。後に、英宗の寵愛を受けて、三人の子供を生まれた。
 
英宗は[[銭皇后]]との間に子供ができず、周貴妃との間に朱見深([[成化帝]])が生まれると、周貴妃は世継ぎの生母として絶大な影響力を誇った。英宗没後、周貴妃は皇太后の地位をめぐって銭皇后と対立し、[[1468年]]に銭皇后が死去すると英宗の遺命だった合葬に徹底して反対した。結局、成化帝が周氏を説得して、合葬こそできなかったがその近くに埋葬している。
 
銭皇后の死後は皇太后として影響力をふるった。成化帝の貴妃である[[万貴妃]]が他の妃に嫉妬して皇子を次々と暗殺すると、生き残っていた朱祐{{lang|zh-tw|樘}}([[弘治帝]])を万貴妃の手から守った。成化帝が死去して弘治帝が即位すると、大皇太后として君臨した。1504年に死去した。
 
== 子女 ==
* 重慶公主
* 朱見深(成化帝)
* 朱見浚
 
== 参考文献 ==