「サヌーシー教団」の版間の差分

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== 創設 ==
サヌーシー教団の創設者である{{仮リンク|ムハンマド・イブン・アリー・アッ=サヌーシー|en|Muhammad ibn Ali as-Senussi}}は現在の[[アルジェリア]]で生まれた。各地に遊学した後、[[1826年]]に[[ハッジ|メッカ巡礼]]を行った際[[スーフィー|イスラーム神秘主義者]]の{{仮リンク|アフマド・イブン・イドリース・アッ=ファーシー|en|Ahmad ibn Idris al-Fasi|label=イブン・イドリース}}に傾倒して{{仮リンク|[[イドリース教団|en|Idrisiyya}}]]に入門し、その高弟となった。当時アラビア半島ではイスラーム神秘主義を否定する[[ワッハーブ派]]が台頭しており、これに対抗するべくイスラーム神秘主義の側でも改革運動が起こっていた。サヌーシーが修行を積んだイドリース教団は改革運動の代表的存在であり、復古的な思想や強固な教団組織は後のサヌーシー教団に大きな影響を与えた。
 
サヌーシーは[[1837年]]に自らの教団であるサヌーシー教団を[[メッカ]]において組織するが、後にメッカで支配者の内紛が起こった際に離れ、[[1843年]]に当時[[オスマン帝国]]領だったキレナイカに移住しそこで教えを広めた。サヌーシー教団が移住した当時のキレナイカは遊牧民同士の衝突が続く無秩序な土地だったが、サヌーシー教団は荒れた内陸部に本拠を構え、節倹を旨とし質素な儀式で遊牧民たちの心をつかみ、調停者として教線を広げていった。[[1859年]]にサヌーシーが亡くなっても教団は拡大を続け、キレナイカ一帯に大きな勢力を誇るようになった。オスマン帝国政府はキレナイカにあまり口出しをせず、サヌーシー教団はキレナイカで自治を行い、繁栄を続けた。しかし[[1908年]]に[[青年トルコ人革命]]が起きると、サヌーシー教団は弾圧を受けるようになった。