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憲宗[[成化帝]]の第4子として、邵宸妃([[孝恵太后]])を母として生まれる。孝宗[[弘治帝]]の異母弟、武宗[[正徳帝]]の叔父である。1487年に興王に封じられ、1494年に封地である湖広安陸州(現在の[[鍾祥市]])に到る。正徳14年(1519年)6月17日に逝去し、正徳帝からは「献王」の[[諡|諡号]]を贈られた。
 
1521年、正徳帝が嗣子のないまま[[崩御]]したため、[[内閣大学士]][[楊廷和]]は「皇明祖訓」に拠って皇位継承者を探した。まず弘治帝については、2人の子は夭逝、さらに遡って成化帝については、長子・次子は夭逝、三子である弘治帝はすでに崩御、四子の興王朱祐杬も既に逝去していたが2人の子があり、長子・朱厚熙は逝去、次子である朱厚熜が嗣子に立てられており、正徳帝の従弟であったので、新帝として迎立された。
 
朱厚熜は帝位に就いた後、実父に対し尊号を追贈したいと思うようになり、これが3年半にも及ぶ「[[大礼の議]]」と呼ばれる論争の発端となった。朝臣の反対をも顧みず、嘉靖帝は実父に対し興献帝、後にまた献皇帝と追尊した。また生母にも興国皇太后と追尊し、弘治帝を「皇伯考」と改称した。1538年9月、祐杭に「睿宗」の[[廟号]]が追尊された。もとの興献王の墳墓は明の[[顕陵]]へと改葬された。