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== 生涯 ==
享保2年(1717年)8月23日、第5代藩主・[[浅野吉長]]の長男として[[江戸]]桜田の上屋敷で生まれる。享保11年9月1日、将軍[[徳川吉宗]]に拝謁する。享保16年11月23日、元服し、従四位下刑部大輔に任官する。寛延2年(1749年)12月18日、待従に任官する。[[宝暦]]2年([[1752年]])に)3月7日、父が死去したため、[[家督]]を継いだ。家督相続により、通称を安芸守に改める。宝暦3年4月18日、お国入りの許可を得る
 
広島藩の財政は父の時代からすでに悪化していたが、宗恒の時代にも幕命による[[比叡山]][[延暦寺]]堂塔修復による15万両の出費に加えて、領内で凶作や大火が相次いで財政が窮乏化した。このため、宝暦3年([[1753年]])には家臣団の知行を半減し、宝暦4年([[1754年]])には永代家禄制度の廃止、能力制による家禄の改正など、世襲制の一部廃止を断行する一方で、自ら倹約に努め、さらに役人の不正摘発や裁判制度の公正化など、様々な藩政改革に着手して、改革をほぼ成功させた。
 
宝暦13年([[1763年]])2月21日、長男・[[浅野重晟|重晟]]に家督を譲って[[隠居]]する。隠居により、通称を但馬守に改める。天明7年(1787年)11月24日、広島で死去した。享年71。
 
{{広島藩主|浅野氏|6代|1752年 - 1763年}}