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en:George Bernard Shaw 09:08, 3 May 2015
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| name = ジョージ・バーナード・ショー<br />George Bernard Shaw
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'''ジョージ・バーナード・ショー'''({{Lang|en|George Bernard Shaw}}, [[1856年]][[7月26日]] - [[1950年]][[11月2日]])は[[ギリスルランド]]で19世紀から20世紀に活躍した[[アイルランド]]出身劇作[[文学者]]、[[脚本]][[]]音楽[[評論家]][[政治家]][[教育家。特にイギリス近代演劇の確立者として有名であり、精力的に作品を書き続けて94歳で没するまでに53本もの[[戯曲]]を残し1925年には[[ジャベル文学賞ナリスト]]を受賞した
 
[[ヴィクトリア朝]]時代から近代にかけて、[[イギリス]]や[[アメリカ]]など[[英語圏]]の国々で多様な功績を残した才人として知られている。
自身は大学などの高等教育を受けなかったが、[[ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス]](LSE)の創設に関わるなど、教育・研究の分野でも重要な足跡を残した。また、そのLSE設立の背景には[[フェビアン協会]]を通じた政治家としての活動があり、[[社会主義]]([[社会民主主義]])に強い賛意を示した。進取の精神で知られ、社会主義以外にも新しく世の中に出てくる考え方に対してほぼ生涯を通じて賛成している、反面、次々と新しい思想に飛びつき、思想信条に一貫性がないとの誹りもしばしば受けていた。
 
==概要==
特に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の[[優生思想]]への共感や、社会民主主義のみならず[[ソビエト連邦]]の[[共産主義]]など全体主義的な運動に関する好意的な姿勢は、後に物議をかもした。
バーナード・ショーの功績の中でも、特に文学者と教育家としての活躍が有名である。イギリス近代演劇の確立者として精力的に作品を書き続け、94歳で没するまでに53本もの[[戯曲]]を残し、「他に類を見ない風刺に満ち、理想性と人間性を描いた作品を送り出した」として1925年に[[ノーベル文学賞]]を受賞した。アイルランド人の[[ノーベル文学賞]]受賞者としては、文学者[[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]に続いて二人目となった。映画文化の発展にも貢献し、『ピグマリオン』はアメリカの[[ハリウッド]]で映画化されて[[第11回アカデミー賞]]の[[アカデミー脚色賞|脚色賞]]を授与された。教育家としては自身は大学などの高等教育を受けなかったが、[[社会科学]]の発展を目指して[[ロンドン大学]]内の教育機関[[ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス]](LSE)の創設に尽力し、[[経済学]]の発展に重要な足跡を残した。
 
政治家としては一貫して[[進歩主義]]に属し、穏健な[[社会主義]]([[社会民主主義]])を掲げ、後に[[イギリス労働党]]の前身となる[[フェビアン協会]]の会員として行動した。労働者を搾取する近代イギリスの行き過ぎた[[資本主義]]や退廃的な[[貴族趣味]]を嫌い、男女平等、土地改革、労働者保護などの社会改革や[[菜食主義]]に代表される健康的な食生活を信念としていた。フェビアン協会の為に数多くの文章や演説を通じた政治運動を展開したが、表立って権力を握る事は嫌っており選挙への立候補については幾度も固辞している。例外的に[[ロンドン市]]メトロポリタン行政区議会からセント・パンクラス地区([[:en:Metropolitan Borough of St Pancras|en]])代表の区議会議員に選出された際には引き受けているが、フェビアン協会も含めたどの党や政治団体にも所属しない無所属議員として活動している。晩年には文学、教育、政治などでの業績を讃えてイギリス王家から[[騎士]]称号の授与が提案されたが、これを拒否している。
 
芸術家として、またリベラリストとして自由主義や民主主義を基本的に肯定したが、その欠点である衆愚政治や退廃に無批判ではなく、[[ファシズム]]や[[ソ連型社会主義]]など[[独裁制]]や[[全体主義]]に理解を示す発言を行う場合もあった。人間社会に対する厭世主義から「無価値な人間の処分」をしばしば唱え、その観点から[[人種主義]]や[[優生学]]も肯定していた。こうした点は後にイギリスが第二次世界大戦で枢軸国陣営と戦い、冷戦ではアメリカに協力して[[ソヴィエト連邦]]と対峙する中、こうした主張が批判される場合もあった。
 
持論である[[菜食主義]]による健康な生活もあってか長命を保ち、90歳を超えても健康的な生活を謳歌していた。その死も病や老いではなく、自宅で庭の手入れをしていて梯子から転落して骨折が悪化した際、受けた手術の経過が悪く[[腎臓浮腫]]を患った為であった。1950年、94歳の生涯を終え、遺灰は遺言により妻の遺灰と共に自宅の庭園に埋葬された。
 
==生涯==