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== 人物・来歴 ==
茂とともに中学時代より陸上競技を始める。中学2年で兄弟揃って大分県内一周駅伝に出場するなど、早くから地元では注目されていたが、同じ2年生からは学校の指導者が不在となり茂とともに自主的に考えてトレーニングをしたという。親の薦めで茂とともに[[大分県立佐伯豊南高等学校]]に進学、下宿生活を送る。高校在学中には[[全国高等学校駅伝競走大会|全国高校駅伝]]にも出場を果たし、3年生時の1970年の大会では3区で6人を「ごぼう抜き」する走りを見せ<ref>[http://www.koukouekiden.jp/record/archive/m_21/report.html 男子第21回大会の記事] - 全国高等学校駅伝競走大会ウェブサイト</ref>
 
高校卒業とともに1971年、[[旭化成陸上部]]に入部。1973年3月、[[延岡西日本マラソン]]で初マラソンを走り、2時間17分46秒6のタイムで茂に次ぐ2位となる。1975年には[[モントリオールオリンピック]]のプレ大会に派遣され、6位となった。同年12月の[[福岡国際マラソン]]では6位入賞。しかし、翌1976年4月の毎日マラソン(現・[[びわ湖毎日マラソン]])では38位と惨敗したことから、モントリオールオリンピック代表の選からは漏れ、出場した茂を見守ることとなった。同年10月のコシチェ国際マラソン([[チェコスロバキア]])で初優勝。茂が世界歴代2位の記録(2時間09分05秒6)で優勝した1978年2月の[[別府大分毎日マラソン]]では2位だったが、サブテンはならなかった。同年4月の毎日マラソンで国内レース初優勝(同年の毎日マラソンは日本選手権を兼ねていた)を飾る。1979年12月の福岡国際マラソンでは、ゴール前のトラックで瀬古・茂とのデッドヒートの末3位となり、翌1980年の[[モスクワオリンピック]]代表に選出された。しかし、日本がモスクワオリンピックをボイコットしたため、幻の代表となる。1980年12月の福岡国際マラソンでは優勝した瀬古に次いで2時間9分49秒で2位となり、初のサブテンを果たした。