「安藤定治」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎参考文献: Category+2
40行目:
 
=== 追放後 ===
天正8年([[1580年]])8月、[[佐久間信盛]]・[[佐久間信栄]]親子に続いて[[甲斐国|甲斐]]の[[武田勝頼]]と内通したという罪により父守就を初めとする安藤一族の織田家追放が通達される。内通の真偽に関しては謎であるが一説には武田に通じていたのは定治であったという。
 
追放後は一族ともども美濃の[[武儀郡]]谷口村に蟄居し[[稲葉良通]]預かりとなり、旧領は稲葉家に吸収される形となった。
 
天正10年(1582年)[[6月2日]]、[[本能寺の変]]が起こり、信長が家臣の[[明智光秀]]により討たれると、定治は父と共に挙兵して稲葉良通の領有していた父の旧領[[北方城]]を奪い、再起を試みた。しかし、6月8日には稲葉軍の攻撃の前に破れ父守就や息子忠四郎ともども討ち果たされた。
 
== 参考文献 ==