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== 略歴 ==
父虎吉は「三枝右衛門尉」を名乗り武田家の奉行人として活動し、現在の山梨県[[中央市]](旧[[豊富村 (山梨県)|豊富村]])木原に本領を有していたという。戦国期に[[三枝氏]]は武田譜代[[山県昌景]]を寄親としている。
 
『[[甲陽軍鑑]]』『[[寛永諸家系図伝]]』などに拠れば昌貞は虎吉の嫡子で、[[武田信玄]]の近習衆として仕えていたが、信玄にその才能を認められて[[足軽大将]]に出世したという。『甲陽軍鑑』では昌貞は山県昌景と同族の[[山県氏]]の出自で三枝氏の養子になったとされているが、『寛永伝』では逆に昌景の娘婿(後に猶子)となり山県善右衛門尉を名乗ったとしている。なお、文書上においては[[永禄]]11年([[1568年]])頃から「山県勘解由左衛門尉」を称していることが確認される。『甲陽軍鑑』によれば30騎、足軽70人を指揮したという。
 
『寛永伝』三枝守友譜に拠れば、[[弘治 (日本)|弘治]]年間には信玄の勘気を受け一時蟄居したという。文書上の初見は[[川中島の戦い]]に際した永禄4年([[1561年]])3月で、昌貞は信濃における活躍で知行を与えられている<ref>永禄4年3月9日付「武田信玄書状」、三枝家旧蔵文書『[[戦国遺文]]』武田氏編 - 728号</ref>。さらに永禄6年([[1563年]])には叔父の守直(新十郎)の遺児養育と[[後見]]を命じられている<ref>永禄6年11月12日付「武田信玄判物」、三枝家旧蔵文書</ref>。永禄12年8月には甲斐塩後郷(山梨県[[甲州市]][[塩山市|塩山]])において[[代官]]を務めており、この頃には赦免されていると考えられている。
 
その後は奉行衆や武田氏の[[御料所]]の代官などを務めている。昌貞関係文書において、信玄は昌貞への加増を躊躇している文言が認められ、『寛永伝』に記される信玄の勘気を被ったとする逸話には一定の信憑性が認められている<ref>丸島(2011)</ref>。また、昌貞関係文書は信玄直筆のものも多く含まれ、内容も叱責など信玄の感情的側面が記されている一方で、昌貞は武田家に順調に加増されていることが指摘され、信玄と昌貞の親近性を反映しているとも考えられている<ref>丸島(2011)</ref>。
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酒井奇襲隊は、武田軍守備隊が無警戒な山奥から尾根伝いに背後へ迫って、5砦を撃滅する目的であった。その上、不運にも守友の担当した「姥が懐」の砦だけが、山頂や尾根に構えられた砦ではなかった為、敵襲の察知が一段と遅れたとも言われる。奇襲隊副将格の[[本多広孝]]の軍勢に、直上から逆落とし同然に攻め掛かられた守友たちではあったが、数で劣りながらも奮戦は目覚ましかったという。しかし、次第に劣勢に立たされていくばかりか、敵方には隣砦「君ヶ伏床」を壊滅させた[[松平清宗]]などが増援に加わるが、武田守備隊へは増援が無く万事休す。2人の弟・[[三枝守義|源左衛門守義]]、[[三枝守光|甚太郎守光]]たちと共に戦死したという。
 
昌貞が討たれた「姥が懐」の付近([[愛知県]][[新城市]]乗本字東畑)に、「三枝兄弟」の墓碑が所在している。
 
== 昌貞の子孫と三枝氏の由緒 ==
昌貞嫡男の守吉は幼少であったため、叔父にあたる昌吉が[[名代]]を務める。昌貞の父・虎吉は武田氏滅亡後まで存命し、[[天正壬午の乱]]を経て甲斐を支配した[[徳川氏]]に帰属している。徳川家臣となった三枝氏は昌吉が家督を継ぎ、守吉は[[分家]]を起している。守吉系の子孫は[[元禄]]11年([[1698年]])に[[近江国]]に移封し、徳川家の[[旗本]]となっている。守吉系の子孫は明治期に断絶しているが家伝文書(「三枝家文書」)は[[滋賀県]][[東近江市]](旧[[能登川町]])北須田町の守国神社に現存しており、[[東近江市能登川博物館]]において寄託されている。
 
なお、古代甲斐国において[[甲府盆地]]東部を中心に勢力をもっていた[[在庁官人]]である三枝氏が存在し、[[平安時代]]後期には[[甲斐源氏]]の土着以前に没落したと考えられている。中世には古代に開創された柏尾山[[大善寺 (甲州市)|大善寺]](山梨県甲州市[[勝沼町|勝沼]])が三枝一族の「三枝守国」によって開創されたとする由緒が成立している。
 
旗本として存続した昌貞の子孫は戦国期三枝氏の遠祖を古代豪族三枝氏に求めており、江戸後期に成立した『[[甲斐国志]]』においては、三枝氏は信虎期に庶流の[[石原守種]]の次男[[三枝守綱|守綱]]によって再興されたとしている。