「アントワーヌ=ジャン・グロ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
RJANKA (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
6行目:
グロの父は[[ミニアチュール]]画家で、息子が6歳になると絵を教え始めた。グロは当初から優れた才能を示した。[[1785年]]の終わりになってグロは、自身で選んで[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]の画房へ入り熱心に通った。それと並行して[[コレージュ・マザラン]](かつての[[パリ大学]]のコレージュの一つ)の授業を受けた。
 
[[フランス革命]]により環境が激変したことに当惑していた父親が死に、[[1791年]]にグロは自分の収入で生きていかなければならなくなった。彼は今や自分の職にすっかりのめり込み、[[1792年]]には展覧会に出品しグランプリを狙った(不発に終わる)。しかしこの頃には、[[エコール・デ・ボザール]]の推薦で、グロは[[国民公会]]の肖像画制作の場に雇われた。革命の進行によりそれも破れ、グロは[[1793年]]に[[イタリア]]へ向けて発った。
 
===ナポレオンとの出会い===
グロは[[ジェノヴァ]]で、多大な量のミニアチュールを創作して生活した。グロは[[フィレンツェ]]を訪れ、そこで[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]の知遇を得てジェノヴァへ戻った。彼はジョゼフィーヌに連れられて[[ミラノ]]へ向かい、そこで彼女ジョゼフィーヌの夫である[[ナポレオン・ボナパルト]]に歓待された。
 
[[1796年]]11月15日、グロはナポレオンが橋上にフランスの旗<!--国旗でなく軍旗と思われる。-->を揚げた[[アルコレ (ヴェローナ県)|アルコレ]]近郊にフランス軍とともにいた([[アルコレの戦い]])。グロはこの出来事に飛びつき、画家は自身の天職であると思い定める作品を仕上げたのである。ナポレオンはすぐにグロに''inspecteur aux revues''(掠奪する美術品の評価監査員)の地位を与え、グロを軍に同行させることにした。[[1797年]]には[[ルーヴル美術館]]に収蔵する戦利品を吟味する委員会にグロを任命した。
 
===出世三部作===
[[Image:Antoine-Jean Gros - Bonaparte visitant les pestiférés de Jaffa.jpg|thumb|300px|『ヤッファのペスト患者たちを見舞うナポレオン』、ルーヴル美術館蔵、1804年]]
[[1799年]]、包囲されたジェノヴァから逃れてグロはパリへ戻った。[[1801年]]初頭、グロはカプチン街に自分の部屋を持った。グロの『ナザレの戦い』のスケッチ画(現在ナント美術館蔵)に対して[[1802年]]に執政政府から賞金提供の申し出がなされたが実行に移されなかった。[[ナザレ]]の騎兵戦で戦功をたてた[[ジャン=アンドシュ・ジュノー]]をナポレオンが嫉妬したためと言われる。しかし、自身が[[ヤッファ]]の[[ペスト]]患者の収容施設を見舞った際を描くよう命じてグロを保護した。グロはその『ヤッファのペスト患者たちを見舞うナポレオン』“Les Pestiférés de Jaffa”に続き、『[[アブキールの戦い (1799年)|アブキールの戦い]]』(ルーヴル美術館蔵、1806年)、『[[アイラウの戦い]]』(ルーヴル美術館蔵、1808年)を描き上げた。これらの3つの主題(つまり大衆の支持を得た指導者が不動の悪疫に直面する場面、勝利の素晴らしい瞬間へ挑戦する場面、激戦の苦い損失に心を痛める場面)が、グロに名声をもたらしたのである<ref name="britanica">[[ブリタニカ百科事典第11版]]</ref>。
 
[[1804年]]のサロンで、グロは『ヤッファのペスト患者たちを見舞うナポレオン』でデビューした。この作品によって、グロは成功した画家としてスタートを切ったのである。この絵は、ヤッファで部下たちを見舞ったときのナポレオンを描いたものである。ナポレオンは[[エジプト]]征服の試みが打ち砕かれた後に周辺国を荒らしたが、部下の兵士らが[[ペスト]]に罹患したのである。世評は、なぜグロが訪問したのかという事に関して二分された。ヤッファで配下の兵士らを死なせて去るべきか見定めるためだったのか、それとも兵士らを激励するためだったのかという事に関してである。絵はグロにとって重要なものだった。なぜなら、グロはナポレオンを主として肯定的に描いたからである。異国風の背景と最近起きた事件とを絵に描いたことでも、グロをして同時代の画家から抜きん出たものとしたのである。<ref>Chu, Petra ten-Doesschate (2006). Nineteenth-Century European Art. Prentice Hall, p.126-p.127 ISBN 0-13-188643-6</ref>
 
===古典主義派としての行き詰まり===
フランスの国民生活と軍事的要素が密接に結びついたままであったことが、グロに新鮮で活力に満ちたインスピレーションをもたらした<ref name="britanica"/>。そのインスピレーションによって、グロは自身が描いた諸事件の核心部分に到達しえたのである。しかし一般庶民からかけ離れた軍隊と将軍から個人的な野心を満たすためだけにエピソードを再現することを求められたグロは、自分の天性をさらに豊かにする必要性を探求するのをやめてしまった。そしてグロの芸術的地位の欠陥は明らかとなっていった。生まれながらもつ手腕、彩色の生き生きとした効果をもたらす魅力、[[古典主義]]の流れに反するとみなされた色合いを持ちながら、古典主義派で修行したグロはその決まり事に束縛された。
 
[[1810年]]に発表されたグロの絵画『マドリード』と『ピラミッドを前にするナポレオン』は、幸運の星がグロを見放したことをうかがわせた。グロの描いた『[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]と神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]』(1812年、ルーヴル美術館蔵)は相当な成功を収めたが、晩年にグロの初期の勢いと活力を見せた作品といえば、サント・ジュヌヴィエーヴ教会(後の[[パンテオン (パリ)|パンテオン]])<!--フランス語版記事のグロ作品リストによれば、これは18区にあるサントジュヌヴィエーヴ・デ・グランド・キャリエール教会 Église Sainte-Geneviève-des-Grandes-Carrièresではなく、正教会であるノートルダム・ジョワ・デ・ザフリジェ・サントジュヌヴィエーヴ教会 Église Notre-Dame-Joie-des-affligés-Sainte-Genevièveでもなく、5区のサント・ジュヌヴィエーヴの丘にあって後にパンテオンに転用されることになったものとのことです。-->ドームの装飾(1811年開始、1824年完成)だけであった。『[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]の出発』、『[[マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス|アングレーム公爵夫人]]の乗船』、ルーヴル美術館の「エジプトの間」にある飾り天井、そして最後にグロの『ヘラクレスとディオメデス』が[[1835年]]に出展された。グロの恩師であるダヴィッドがかつて言ったように、この絵はグロの努力だけを証明するものではあっても、[[ロマン主義]]台頭の中にあって、古典主義派に属するグロの昔勝ち得た輝かしい名声が傷つくだけに終わった。
 
==死==
『批判されたことへのいらだち、そして失敗したという自覚から、グロは人生のさらに濃い喜びの中へ身を隠す場所を見いだした』<ref name="britanica"/>。1835年6月25日、グロは[[セーヴル]]近郊の[[セーヌ川]]に身を投げ、既に溺死しているのを発見された。グロの帽子の中にあった一枚の紙には、こう書かれていた。''"las de la vie, et trahi par les dernières facultés qui la lui rendaient supportable, il avait résolu de s’en défaire."'' (人生に疲れ、残った才能からも耐えうる批判からも、裏切られた。彼は全てを終わらせようと決意したのだ)。
 
==名声==
グロは勲章を授けられ、1808年のサロンで『アイラウの戦い』を発表後、ナポレオンによって男爵位を授けられた<ref>Christopher Prendergast, Napoleon and History Painting: Antoine-Jean Gros's La Bataille d'Eylau (Oxford: Clarendon Press, 1997)</ref>。[[フランス復古王政]]になっても、グロはエコール・デ・ボザールの教師となり、協会の一員であり、[[サン・ミシェル騎士団]]の騎士(chevalier)であった。
 
== 生徒と弟子 ==